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第13回南方熊楠邸調査

(1996. 3.29〜 4. 2)

調査状況

 調査終了後、南方文枝さんを囲み調査の報告を行った。
(記録・編集 原田健一)

小峯  日記の調査を行いました。特にマイクロ化の作業のためにサイズ、ページ数等を確定する作業を行った。ざっとではあるが目を通してみて、気が付いたのは現在刊行されている八坂本の『日記』には、起こされていないものがあることです。まず、文章中の書き込みが十分に活かされていない、また書籍からの抜き書きも起こされていないですね。あとは、差別にからむ記述が抜けています。やはり、マイクロ化を行ってもう一度、翻字をやり直す必要があるでしょうね。

武内  キットボックスの目録を再チェックしました。書籍類の目録はだいぶ詳しいのですが、生資料の方はとりあえず、作業するためのものですから、やはり誤りが多く、年代が抜けているなど、全体に精粗が目立ちます。これはやむ得ないことでしょう。今回の再チェックはそこらへんを重点にし、内容調査までには入りません。マイクロ化等のための範囲にして、詳しく内容について調べるのはそれからの課題とします。いずれにしても早期完成を目指しますが、現在の進捗状況は3(残り72)。効率化を図るには横でパソコンに同時進行で打ち込みをやっていく必要があるなあ。

飯倉  丁寧に見ていくと、アメリカ〜那智時代の常楠からの書簡が多いことが分かるね。内容をざっとだけど見ても、熊楠と常楠のふたりはうるわしい兄弟愛というのかな。やっぱり今みたいに十分に資料が出ていないと、常楠さんの印象にかたよりが生じるね。

武内  封筒から珍事評論1号用の下絵が出てきたりしたね。やはり、丁寧に資料は見ないと。

川島  洋書の内容調査を行いました。現在の台帳は外回りの調査結果という感じで、署名や蔵書印の有無などが抜けているなど、なかなか不備が多い。これを今回補えましたが、まだ3分の1ぐらいかな。夏の調査で仕上げるのは無理でしょう。購入日も普通は本文のはじめの頁に書いてあるんだが、よく見ると途中の頁に書いてある場合もある。丁寧にみていかないとならないのは蔵書も同じです。現在の作業が完成し、これに日記等の記載も補足すれば、熊楠のライブラリー形成史が描けるのではないか。書籍購入のためのイギリスの古書店のカタログが残されているので、これも調査すれば、かなり蔵書の形成史がはっきりするね。その次の作業は、蔵書への書き込みが重要。まだその内容に踏み込む時間がないので、その多少ぐらいしか分からないが、特にインデックス(索引)の欄に多い。これは熊楠的特徴かな。

    雑誌については、掲載論文情報を目録に織り込んでいくのか、など問題が残っている。

田村  また、北米顕花植物のカタログが発見されました。熊楠はそこに印をつけて、採集したものとそうでないもの、またどこで採集したかなどを区別しています。これは一種の採集記録でしょう。

粟国  南方熊楠所蔵の『球陽』(琉球王府の正史)の調査をしました。この『球陽』は末吉安恭が熊楠に送ったもの。中瀬先生に日記を調べていただき、大正7年に送ったものと分かりました。全冊揃っていますし、欠けている部分については末吉が丁寧に補注を書き入れており、現存の写本としては最上のものと言ってよいと思います。それに熊楠も読んで書き込みをしています。

    今回、全冊写真撮影をしたので、具体的な内容は今後、校合してみてということになるかと思います。

橋爪  1903〜05年の那智・田辺時代の昆虫標本を、後藤・吉沢両先生に整理、同定作業をしていただきました。ほとんど原型をとどめていないですね。ラベルのみのものが多い。年代別に箱に入れてあるというわけではなかったので、一度腐って残ったものだけを整理しなおしたのかもしれません。また、日記の記述通りのものがきちんとあるのに感心しました。標本は新たな箱に配置しなおしました。

原田  日記の記述と標本が一致しているのは粘菌や菌類でも同じだよ。これは、萩原先生の整理した標本表と今後、日記の記載を合わせていく必要があるところやね。

後藤  あのね、熊楠の採集や標本の作り方は、1900年当時の先進国イギリスのやり方ですよ。これは当時の日本の研究者にくらべすごくあかぬけているんです。それに採集したものは当時、日本で分かってないものが多い。今でも不明のものがある。文献にないので、熊楠も同定作業には困ったろう。常識的にみて、高い山にあると思われるものを採集したり、台湾に生息するとされていたものを採集したりしている。目の前にあるものを、先入見なく全般に見ている。それがそのまま標本にも表れている。これは照葉樹林の特徴であるわけだが、1950年代に我々が気付いたことを、やはり熊楠は分かっていたんじゃないか。あと、やはり、粘菌や菌類が生息するじめじめした場所に生息する朽ち木の昆虫をよく採集している。熊楠が森の中で粘菌や菌類だけを見るというやり方を、していなかったことが分かる。

橋爪  標本はこのほかに顕花植物、キノコ、鉱物などがあります。また海外からの持ち帰りの標本は、これ以外にもあったはずですが。

武内  空襲で焼けたんちゃうか。和歌山の方に、標本類がたくさんあったという話しを聞いているよ。

原田  私の方は黒沢先生の指示にしたがって、岡本先生の書庫の整理を行いました。ただし、今回はごく大雑把に経済・水産・農学・歴史・社会学・民俗学・文学の7つに大きく分けました。今後はそのなかで細分化していく方針です。また、岡本先生の漁業学関係の論文の抜き刷りの調査も同時並行で行いました。これは、黒沢先生に編集していただき出版するところまでする予定です。

    それから、岡本先生の書庫から、『続続南方随筆』の自筆原稿が出てきました。内容は武内先生…

武内  最後になってでてきたので、まだ整理が終わっていませんが。中瀬先生に日記を調べていただき、『続続南方随筆』についての記載をみると、多分、岡さんに送って戻ってきたものかと思われます。ただ、戻ってから、さらにメモ的に書き込みをしたのか、文章としては中途の書き入れもあります。あと、未発表のものもある。乾元社の全集用の封筒に入っていたわけですから、その時には使ったわけでしょう。平凡社ではどうだったか。

原田  林さんの整理のための紙がついていないところをみると、平凡社には出さなかったというか。これだけが、別置きにして、忘れられていたんじゃないですか。

武内  サイン帳がありましたね。あれに孫文のサインがあります。これは記念館にある「日記」のとは別の日にロンドンでしてもらったものです。岡本先生かな、田辺に来た時かという、メモがありますね。

原田  岡本先生は孫文関係の日記の部分を翻字したノートがありましたね。しかし、なんで当時発表しなかったのかな。やはり不思議だな。(その後、岡田桑三資料の調査のおり、高木一夫「孫文より南方熊楠への手紙」(博物4-5,1951,10)を見つけた。内容は現在、八坂「日記」第二巻に所収されている孫文の手紙の全訳と日記該当部分の抜き書きによって、孫文と熊楠との関係を論証したものである。ノートは、それに使った可能性がある。)

    それと、多分雑賀さんの筆による蔵書目録のノートが出てきました。これは熊楠が生きている時に、作成したものですね。完全ではありませんが、書籍がどこに置かれていたかについても記述がある。なかなか興味深い資料です。

飯倉  ところで、そろそろ作成した目録を発表することも考えるところにきているわけだが、記念館の目録と形式を合わせることもひとつだが、表記の問題をどうするか考えないといけない。これについては、次回の調査の時に、煮詰める必要がある。


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