本文章は、『熊楠研究』第六号掲載の記事から、下記の二著に関する箇所を抜粋掲載したものです。
一九九一年の南方熊楠没後五十周年の前後に起きたいわゆる南方ブームから十年以上が経過した。この間の熊楠をめぐる研究状況は、派手さはないが着実に変わりつつあると言えるだろう。その一つは、多様な学問分野や新しい視点からの熊楠像の見直しが増えてきていることにあり、もう一つは資料調査の進展による精緻な実証的分析の可能性が開かれつつあることにある。
千田智子氏の著作は、近代日本の思想的変動の中に、熊楠の神社合祀反対運動を位置づけていくことを目的とするものである。しかし、神道とそれを取り巻く明治期の政治・思想状況を、一貫して近代における空間の変容という視角から分析をしていることに、従来の論とはひと味違う新しさがある。論旨も明快で、読み応えのある一冊と言えるだろう。
千田氏はまず、近代国家としての明治日本が、神道を基礎にして国家アイデンティティを作り上げるために、廃仏毀釈、神道非宗教論を経て、神社システムを作り上げていったことを説明する。そして、日露戦争後の復興政策の中で、「神社を地方共同体の中心に据えることで人民の団結を図る理念」として「神社中心主義」という考え方が浮上してきたこと。その具体化として一行政町村に一社を原則として神社を統廃合していくという、神社合祀が促進されるようになったことへと話を進める。
さらに千田氏は、こうした流れは近代における空間の再編と並行するものであるとする。近代国家としての「日本」を立ち上げるために、人々の日常生活と渾然一体となった宗教空間に置かれていた社寺は保存と法的整備の対象となり、信仰の対象物は「宗教美術」として博物館という陳列の場へと囲い込まれることになった。すなわち、「近代以前、人々は寺や神社を『日本建築』としてみたことはなかった。あくまで、それは寺や社であり、そこには仏や神がいた。ところが近代に入ると、寺や神社は『日本建築』として、仏像は『宗教美術』として認識されるようになってゆく」(八五頁)のである。国家神道の形成を、従来のような社会体制の問題としてではなく、空間の均質化と一方的な視線による管理の導入というフーコー的な観点からまとめていく手際は鮮やかである。
実は、「南方熊楠と近代日本」という副題にもかかわらず、三部構成のこの本の中で熊楠が本格的に登場するのは第三部のみである。半分を過ぎて伊東忠太が論じられ始めるあたりになると、さすがに副題に少々不安を感じたりもする。しかし、その残りの三分の一を占める熊楠論は、少なくとも論旨の一貫性という点からは、前二部とうまく噛み合っている。
千田氏は、ロンドン時代から那智時代にかけての熊楠が、土宜法竜宛書簡の中で「事の学」から「南方マンダラ」へという思想的な展開を見せていることを紹介する。このあたりは、すでに鶴見和子氏以来のやや定型化しつつある議論が存在するところだが、千田氏はこの議論を近代以前の、自然環境の中にある宗教空間で行われ続けてきた「身体と空間の邂逅による意味の生成」へと読み替える。すなわち、「自然のなかには、異質なものどうしが混在し、それぞれが力を得てうごめいている。それらが相交わるところに『事』は生じる。」(二四六頁)。
そして、人間はその自然の空間に身体をもって介入することで、新たな「事」を引き起こし、空間に次々と別の意味づけを付与していく。その結果、宗教空間は人々の生活と分かちがたいものとなり、近代以降の日本国家のシンボルとして意味づけられた神社システムのような一般化の成り立たない、常に個別的な体験の対象となる。熊楠が森を「秘密儀」の場と呼び、神社合祀反対運動で王子社の縁起を説いたりしながら言いたかったのは、そのような空間の個別性のことであると、千田氏は言う。「南方が憤っていたのは、『廃絶』と『保存』から成る近代的空間編成が引き起こさずにはおかない、空間の一元化に対してであった」(二五二頁)という解釈が字義通りに成り立つかどうかは別として、少なくともレトリックとして一定の説得力を持つことは確かである。
ただし、本書を通読して感ずる最大の不満は、そうした熊楠の空間へのとらえ方を支えていた具体的かつ個別的な文脈に対する分析が見られないことである。なるほど、熊楠は近代による空間の一元化とそれによって立ち上げられた「日本」という制度から逸脱する自由を持っていたかもしれない。しかし、その逸脱した先にある「近代」の外部としての熊楠の世界はどのような力学によって成り立っているのか、本書はその具体性をとらえているとは言えない。
たとえば、本書で用いられる「森」という概念は、たいへん抽象化されたシンボル的なものである。ところが、実際の紀伊半島の森は、原生林から人里近い二次林まで、さまざまな多様性と個別性を持っている。その個々の森林における熊楠のフィールドワークの中身に立ち入らずに彼の「森」に対する考え方を土宜法竜宛書簡のみから引き出すことは、もちろん議論のためにある程度必要であるとは認めつつも、ある意味で近代的な視線の力による熊楠像の一元化と見えなくもないのである。
そうした意味では、原田健一氏の著作は、邸資料調査に長年関わってきた著者の、資料に即した問題意識に基づいており、熊楠思想の個別的文脈の分析という要望にかなりの程度で答えてくれるものと言える。「I 進化論」、「II 政治」、「III 性」という三つの区分にしたがって提示される研究上のアイデアは、そこからさまざまな論点を派生させており、熊楠の活動が持っていた混沌かつ猥雑な力を喚起させるものがある。そのすべてを紹介することはできないので、ここではそれぞれのトピックの中から、恣意的に選んだ論点を挙げておきたい。
まず「I 進化論」の中で、原田氏は若き日の熊楠が傾倒したハーバート・スペンサーを再評価しようと試みている。当時の社会進化論の代表的学者であるスペンサーを、熊楠はいったんは受容しながら後にはその本質を見抜いて批判したという従来の論調に対して、それは土宜法竜という日本人仏教徒の耳に入りやすい言い方をした熊楠自身のレトリックに流された一面的な見方であると、原田氏は言う。スペンサーの総合哲学は、自然科学と社会学の包括という大きな目的があり、その可能性には見直すべき点が多いというのが、議論の中心である。
たしかにアメリカ時代からロンドン時代の熊楠には、スペンサーと取り組むことによって自らの自然科学および社会科学の基礎を作り上げようとしたところがある。もちろん、こうした影響を総体として明らかにしていくためには、熊楠がスペンサー理論を用いて書いたいくつかの英文論文の分析や、蔵書中の当該書籍への書き込みの調査などを通じて、さらに実証的に論の細部を詰めていく必要があるだろう。しかし、少なくとも初期の熊楠がスペンサーの学問の総合性に魅力を感じ、それを規範にしようとしていたことを柔軟に再評価しようとする点において、本書における議論には妥当性があると言えよう。
「II 政治」における論点は、熊楠の研究上の問題としてはさらに重要である。神社合祀反対運動における熊楠の地方新聞を中心とする活動は、パフォーマンスとしての意味を色濃く有していると、原田氏は指摘する。たとえば『牟婁新報』に熊楠談として載せられた文章のいくつかが、熊楠自身が自らを客観化して書いた自作自演のものではないかと考えられること。また、合祀推進派の集会に乱入して留置所に拘置されたことにしても、熊楠はあらかじめ何らかの事件を起こすことを予告していること。そうしたことは、合祀反対運動を進めるために、あえて社会的な攪乱を意図した熊楠のパフォーマンスの一部なのだと、原田氏は結論づけるのである。このことは、今後の熊楠研究が、従来のようなテクスト分析を越えたところに、その像を結ばなければならないという、きわめて重大な結果を予測させるものである。
「III 性」は、これまで話題としては取り上げられながら、その内実についてはきちんと研究されてきたとは言えないセクソロジーに関して分析している。主に二十代前半頃までの資料に見られる男色者としての熊楠をその後にも敷衍する論には少々偏りが見られるが、ロンドン時代に人間社会の根幹としてのタブーを論じ、それがセクソロジーにもつながっているとする論点には、一定の説得力がある。
全体に、熊楠のこれまでの資料調査から導き出されたさまざまなアイデアがちりばめられており、刺激的な一冊となっていると言える。今後は、これらの問題意識を既存の学問分野との連関性の中で客観的に評価し直すこと、またそのために本書で提出されている発見に関連する資料をさらに実証的に解析していくことが望まれるだろう。
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熊楠に関する研究書、研究論文は、資料公開が進むことによってさらに増えていくと考えられる。これまでは資料研究的な部分と、諸分野からの熊楠像の再編という部分が、ややもすれば乖離する傾向があったように思われるが、今後、その両者が連動したかたちで研究が進むことを期待したいところである。