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 南方熊楠所蔵条約改正反対意見秘密出版書

武内善信     

  はじめに

 「南方熊楠の蔵は玉手箱だ。ときどき思わぬ物が飛び出して来て驚かされる。まさに開けてびっくりの世界である」と述べて、新日本新聞社から熊楠に宛た手紙を以前紹介した(1)が、本稿で取り上げる南方熊楠所蔵の条約改正反対意見秘密出版書(以下、南方本と略)も飛び切りの珍品である。なぜなら、こうした書籍は、秘密出版という性格上、現在数える程しか残っていないからだ。しかも、この本は官憲の監視の目をかいくぐって、アメリカにいた熊楠のもとへ届けられたのである。また、秘密出版書をその後国元へ送り返すのは危険だから、日本に持ち帰ったと考えた方がよかろう。つまり、南方本は地球を一周して熊楠の蔵に納まったことになる。

 南方本が単に来歴が興味深く、かつ希少価値があるということだけで、本稿で紹介するのではない。先ず、熊楠研究において、この史料は重要だ。というのは、この本には熊楠の書き込みが多くあり、そこにはこの意見書を読んだ感想を綴り、当時の心情を吐露しているのである。それゆえ、アメリカ時代の熊楠を検討する上で、南方本は非常に貴重な史料なのだ。

 そればかりでない。南方本の発見で、条約改正反対意見秘密出版書に関するこれまでの通説を再検討しなければならなくなった。なぜなら、この本と他に現存している秘密出版本とを比較検討することにより、秘密出版書の内容や出版の経過について異なる事実が明らかになったからだ。つまり、熊楠研究だけでなく、いわゆる「自由民権派秘密出版事件」を考察する上で、南方本は重要な史料なのである。

一 条約改正反対意見書の秘密出版について

 江戸幕府が締結した対外条約を継承した明治政府にとって、この条約がもたらした治外法権や関税自主権などをめぐる不平等性を打破することは、最大級の課題であった。即ち、条約改正である。

 一八八七(明治二〇)年、井上馨外相は英・独と条約改正の秘密交渉を進めた。ところが、井上の改正案は、その条件として外国籍の判事・検事の採用や法典の外国による承認等を必要とするものであった。この新条約案に先ず反対したのが、内閣法律顧問のボアソナードである。六月、伊藤博文首相に「裁判権ノ条約草案ニ関スル意見」(以下、ボアソナード意見書と略)を建言し、問題点を指摘して改正案を批判した。

 次いで七月、欧州視察から帰国した農商務大臣の谷干城が、条約改正に関連する七項目の弊害を列挙した意見書(以下、谷意見書と略)を閣議に提出し、大臣を辞任する。なお、これより先、五月に勝海舟が「口演覚書」という一文(以下、勝意見書と略)を書いて、政治全般にわたる意見を開陳していた。

 谷の意見書に続いて、林有造らも条約改正反対の建議をなし、以後諸県有志による建白が相次いだ。八月一二日、板垣退助が「封事」を天皇に上程し、有司専制の弊害を一〇カ条にわたって挙げ、政府を弾劾した。一般に、板垣の「封事」は「板垣退助上奏文」、林の建議は「林有造上奏文」と呼ばれているものである(以下それぞれ板垣意見書、林意見書と略)。

 翌一八八八年には、「憲法議案ヲ下附セラレン事ヲ奏請スルノ意見書」と題する尾崎三良他四名連名の意見書や、「元老院章程ニ関スル意見書」と題する鳥尾小弥太他六名連名の意見書が、提出されている(以下それぞれ尾崎他意見書、鳥尾他意見書と略)。

 こうした条約改正反対意見書を、自由民権派が秘密出版で民間に流布したのである。また、これとは別に、「原規」と通称されたロエスレルの「日本帝国憲法草案」や「グナイスト氏談話」などの明治憲法制定に関する機密書類を、『西哲夢物語』と題して秘かに出版している。さらに、未見ながら、ボアソナード意見書は、「井上毅ボアソナード両氏対話筆記」や「千八百八十七年四月二日迄ニ条約改正ニ於テ採用セラレタル個条修正及定義」といった外交に関係した文章とともに、「禁売買外交秘記と薄赤色の表紙に印刷した秘密出版書」(2)に掲載されているとのことである。なお本稿では、条約改正反対意見書の秘密出版に考察の対象を限定し、『西哲夢物語』や『外交秘記』には言及しない。

 『自由党史』は、「秘密出版の流行」と題して、「瞬く間に排印して、所在に飛行し、何人も其一冊を有せざるなき状態となり」(3)と述べている。これはいかにも大袈裟な表現だ。しかし、新潟の自由民権家西潟為蔵は一八八七年一一月一六日条の日記に、「西哲夢物語弐百部、意見書弐百部(共に秘密出版なり)購求して、新発田の書肆藤田某に託して新潟県有志者へ配賦せしむ」(4)と書いており、民間にかなり広まったことは間違いない。そのうちの一冊が、海を渡ってアメリカにいる南方熊楠の所に届けられたのである。

二 南方本の入手経路

 熊楠に秘密出版書を郵送したのは、弟の常楠だ。一八八七(明治二〇)年一一月一〇日条の『南方熊楠日記』(八坂書房、一九八七年)に「弟よりの日本大家論集一冊及印刷本(表題速記法要決<ママ>)を送らる。是れは谷干城、板垣正形、勝安房、林有造、ボアソナード五人の建白書、意見書を輯め活版に附せるもの也」とある。また、南方本の遊び紙の一頁目に「 This was sent to me / by / T. G. Minakata」との熊楠の書き込みがあり、間違いない。

 それでは、常楠に秘密出版書をもたらした者は誰だろう。それは、志賀信三郎と思われる。一八八八年四月七日条の『南方熊楠日記』によると、「三月十三日出四月七日着常楠状」に「志賀信三郎氏は秘密出版に関し入獄、当時保釈中とのことなり」とある。この秘密出版とは、時期から考えて条約改正に絡む秘密出版と考えてよい。なぜなら、条約改正の秘密出版について記述した、『明治文化全集 正史編上』の「秘密出版事件の顛末」に、「昨二十年の末より当年に渉り秘密出版嫌疑に由り拘引処刑されしもの」の中に、「志賀信三郎」とある(5)。また、『自由党史』にも秘密出版の入獄者として志賀信三郎の名が見える。ただし、志賀は「貫族不明」の欄にある(6)。同書によると、逮捕者には学生も多く含まれていて、東京専門学校生の名前も四人あがっているが、彼の名はない。

 『南方熊楠日記』を見ると、熊楠は、まだ日本にいた頃から志賀信三郎と交際し、在米中も手紙をやり取りしている。だが、どちらかというと常楠の友達のようだ。熊楠が所持し、現在南方熊楠記念館にある「和歌山中学校明治十六年三月定期試験並出席一覧表」に、志賀信三郎の名が載っている。この史料によると、彼は和歌山区(現・和歌山市)の出身で、この時和歌山中学の予科生であるが、定期試験を欠席している。このため、志賀が和歌山中学を卒業したかどうか定かでない。だが、彼の名前の上に「専門校」との書き込みがあり、東京専門学校に入学したようだ。ほぼ同世代である常楠も、東京専門学校生であり、両者が親しかったのも頷ける。

 一八八八年一二月二七日付『東雲新聞』の「秘密出版事件の宣告」によると、志賀信三郎は逮捕されたが、裁判では無罪となっている。『南方熊楠日記』一八八九年一月一七日条に、「毎日新聞にて志賀信三郎氏秘密出版一件無罪放免なりしを知る」とあり、逮捕された志賀信三郎が熊楠の知人の志賀であることは間違いない。

 熊楠にこの秘密出版書を送る際、手紙が同封されていたようだ。熊楠は南方本の本文七八頁の白紙に以下の抜き書きを記している。残念ながら、現物は残っていない。なお、読みやすいように適宜句読点をうった。

   明治弐拾年拾月拾七日附状

 小生等今度同志と謀り、谷以下四氏の意見書を印刷ニ附したれバ一本御送付申上候。

 此書ハ実に政府に於ても探偵発禁にて、或る県にてハ官吏にして所持し居りし者も悉く免職せしめたるなど、亦郵送せる節も往々名宛の者へ届かず、察するに没収せられしならんか。此の如くなれハ今回御送り申せし者も、或ハ着せざるやも難計、されとも若し着すれハ幸なり。現今日本は実に暗黒世界に陥たり 云々

 常楠が秘密出版に関与した形跡はないし、文面も兄弟間のものではないから、手紙の主は、志賀信三郎の可能性が高い。志賀と彼の仲間が、『速記法要訣』を印刷したようだ。志賀は裁判では無罪となったが、秘密出版に関与していたことは間違いなかろう。文面からは、当時、秘密出版書の取締りがいかに厳しかったか、察せられる。アメリカにいる熊楠の手元に、監視の目をかいくぐってよく無事に届いたものだ。熊楠が受け取ったのが一一月一〇日だから、日本から二〇日余りで合衆国ミシガン州に届いている。

 なお、無罪判決以後、志賀信三郎の経歴は不明である。また、『南方熊楠日記』を見るかぎり、熊楠との交際も途絶えてしまっている。

三 南方本の形状と熊楠の書き込み

 南方本は薄茶色の表紙に、「若林@蔵著述/速記法要訣/明治十九年十月再版」と印刷している(写真参照)。このうち、著者と表題は全く架空のものではない。若林蔵著述『速記法要訣』の初版は、一八八六(明治一九)年六月に速記法研究会が実際に出版しており、国立国会図書館にある。この初版本は、条約改正意見書の秘密出版ではなく、表題通りに速記学習のテキストだ。また、本の体裁も南方本と全く違う。

 著者の若林@蔵は、日本に速記を普及させた人物として、その世界では有名人である。彼は三遊亭円朝口演「怪談牡丹灯籠」を速記し、一八八四年に刊行して成功した。また、『経国美談』も矢野竜渓が口述したのを若林が筆記したのである。帝国議会が開会すると、若林自身が速記者として任官しただけでなく、彼の門下生も多く採用されている。

 若林が秘密出版に関与した可能性は、矢野竜渓との繋がりから全くないとは言い切れないものの、極めて少ない。南方本に同封されていた手紙に、この種の本を所持しただけで、官吏は免職になったと書いている。もし若林が関係していたなら、帝国議会の速記者には採用されなかったろう。秘密出版の実行者の中に、『速記法要訣』の初版本を知っている人がいて、当局の眼をくらませるために勝手に使ったというのが真相と思われる。

 南方本は、表紙を見るかぎり速記のテキストのようだが、前述したように、中身は谷、板垣、勝、林、ボアソナードによる五つの条約改正反対意見書を、前から順に合綴した活版印刷本だ。本の寸法は縦一七・四cm、横一一・五cm。本文は一二〇頁で、四〇字・一三行、漢字片仮名文である。表紙と本文との間に遊び紙が三丁ある。遊び紙は通常白紙であるが、その一頁目の右肩に二行で「禁売買/以活版代謄写」と印字している。

 南方本は表紙に「明治十九年十月再版」とある。しかし、板垣意見書は一八八七(明治二〇)年八月一二日付で上奏されており、それ以後の出版であることは明らかだ。前述したように、本に同封された書状の日付が「明治弐拾年拾月拾七日」であるから、一八八七年八月後半から一〇月前半までの間に刊行されたことは間違いない。

 南方本には熊楠が墨で記した多数の書き込みがある。これは熊楠研究にとって貴重な史料であるばかりでなく、その中には秘密出版書を考察する上で重要な記載も含まれている。

 先ず、遊び紙の一頁目に、前述した「This was sent to me / by / T. G. Minakata 」との書き込みの下に、「K.G.Minakata / Aguricultural Caollege<ママ> / Lansing, Michigan / U.S.A.」とある。次に、遊び紙の三頁目には「Contents / General Hon. T. Tani. / T. Itagaki. Esq. / Mr. Y. Hayashi」と記載している。さらに、六頁目には各意見書を読んだ感想を熊楠が綴っている。これはやや長文であり、熊楠研究上重要な内容なので、後で詳しく検討したい。

 本文では、谷干城、板垣退助、勝海舟の各意見書の文末の余白に、それぞれ「右 谷干城君」(三六頁)、「右 板垣退助氏」(七二頁)、「右 勝安房」(七七頁)と記している。また、勝意見書と林意見書との間の本文七八頁が全くの白紙で、南方本に同封された手紙を抜き書きしているが、これはすでに述べた。そして、本文最後の一二〇頁の余白に、「明治弐拾年拾壱月拾日/東京より郵着/南方熊楠所持」とある。ただし、「東京」の字は、「国元」を二本線で抹消した横に書いている。

 以上の書き込みとは別に、南方本には本文の字句を熊楠が墨で補筆した所が二四カ所ほどある。これは、条約改正反対意見秘密出版書の諸本の系列と前後関係を考察する上で、重要な史料であるから、先ずこの点を明らかにしたい。

四 秘密出版書の異本

 条約改正反対意見書の秘密出版として代表的なものは、吉野作造が『明治文化全集』で紹介した『名家意見書』である。この本は、吉川弘文館の『国史大辞典』にも一項を設けて解説されている(7)。なお、「名家意見書」と書かれた秘密出版書は、現在東京大学明治新聞雑誌文庫の吉野作造文庫のなかにあり、これが原本と考えてよかろう(以下、吉野本と略)。

 吉野本は元の表紙を欠いている以外、南方本と体裁及び中身が全く同じだ。本文の一字一句が同じであるだけでなく、同じ活版で印刷している。即ち、南方本も吉野本も、本文一二頁一〇行目の「言」の字の「口」の下の横棒が、また本文三五頁一二行目の「停」の字の「丁」の縦棒が、共通して欠けているのである。

 吉野本の表紙は後に厚紙で仮製本してあり、そこにペン書きで「名家意見書」と書かれている。また、遊び紙の一頁目にも、「禁売買/以活版代謄写」とある活字の左下に「名家意見書」との同筆のペン書きがあり、吉野作造の蔵書印と小金井氏の印が押されている。この小金井氏とは元の所蔵者かもしれない。というのは、吉野は『西哲夢物語』を本郷の古本屋で見つけたという話(8)だから、この本も古書として入手した可能性が高いように思う。

 吉野本が南方本と体裁や中身だけでなく活字まで全く同じであるということは、ことによると欠落した吉野本の表紙にも「速記法要訣」と印刷されていたのではなかろうか。少なくとも、現在流布している「名家意見書」という表題は、後に書かれたもので、本来のものでないことは間違いない。「名家意見書」との命名を行なったのが吉野作造か、それとも「小金井氏」によるものか、表書きの筆跡鑑定を待たねばならない。だが、いずれにしろ、これまで『西哲夢物語』と同じように、表紙に『名家意見書』と印刷した本が存在するかのように考えられて来た(9)が、これは誤りである。

 吉野本には本文に赤ペンで文字の訂正や句読点の追加、さらに字の大きさの指示が書き加えられている。これは多分、『明治文化全集』に各意見書を掲載する際、吉野が編集者に与えた指示と思う。ただし、後述の表が示すように、『明治文化全集』に掲載された文章は、吉野本にある訂正以上に修正を加えている。

 『明治文化全集』用の指示であるとする根拠は、ボアソナード意見書だけ朱書が見られないからだ。周知のように、『明治文化全集』では吉野本に掲載された五つの意見書のうち、ボアソナード意見書だけは外交篇に入っていて、藤井甚太郎が改題を書いているのに対し、他の四つは正史篇下に掲載して吉野自身が改題を書いている。即ち、吉野自身の担当部分にしか、書き込みがないのである。

 ところで、藤井甚太郎はボアソナード意見書を掲載するにあたって、「白紙の表紙に禁売買以活版代謄写印刷とし名家意見書と黒書した……秘密出版書に拠った」(10)と述べている。藤井が依拠した本も、「名家意見書」という字は出版時に印刷されたものではなく、追筆のようだ。多分、これは吉野本である可能性が高い。

 東京大学明治新聞雑誌文庫に、吉野本とは別の秘密出版書がある。この本は、表紙が本文と同じ薄い白紙で、右肩に「禁売買/以活版代謄写」と印字している以外何も書かれていず、「外骨」の判が押されている。この表題のない秘密出版書は、「外骨」の印から判断して明治新聞雑誌文庫の創設者である宮武外骨の所蔵本(以下、宮武本と略)と考えてよかろう。周知のように、彼は熊楠とは因縁の浅くない人物である。

 宮武本の寸法は、縦一七・六cm、横一一・八cm。表紙一丁の次は直に本文の一頁で、一四三頁で終わっている。だが、一二一頁から一三二頁まで抜けており、実質は一三一頁である。本文は一頁のみ四〇字・一二行、以後全て四〇字・一三行で、漢字片仮名文。本文には、南方本・吉野本に収められていた谷、板垣、勝、林、ボアソナードの各意見書に、尾崎他四名意見書と鳥尾他六名意見書とを加わえた、全部で七つの意見書を収載している。なお、『自由党史』下の註(14)で紹介している東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵本(11)は、この宮武本であろう。

 それでは、宮武本の一二一頁から一三二頁までの六丁がどうして欠落しているのだろうか。

 稲生典太郎『条約改正論の歴史的展開』に、以上の秘密出版書と異なる未見の冊子が紹介されている。即ち、「『無名の小冊子』(秘密出版物の一種)(明治二十年・推定)(四六・仮・一三一頁・附一九頁)」とあり、「白色仮表紙の右肩に禁売買以活版代謄写とのみあって、表題を欠く」と書いてある(以下、稲生本と略)。稲生本の本文の中身は、南方本・吉野本に掲載された谷、板垣、勝、林、ボアソナードの五つの意見書(一頁〜一二〇頁)に、「松尾清次郎の元老院あて建白書(一二一頁〜一三一頁)(明治二十年九月廿五日)」を加えたものという。なお、付録は「原規」、つまりロエスレルの「日本帝国憲法草案」とのことである(12)

 宮武本の落丁は、最初の頁数と丁数が一致するから、稲生本が掲載した松尾清次郎の建白書の部分を除いたもの、と考えて大過なかろう。ことによると、宮武本は当初、松尾の建白書も収める予定であったが、取り止めになったのではなかろうか。松尾清次郎は弁護士で、東京府の議員や参事会員を務めている。しかし、意見書の他の著者と比較して、二流の人物であることは否めない。松尾の建白書を掲載しても政治的効果は少ない、と判断されたとしても不思議でない。

 以上のような複数の意見書を一冊にした合綴本以外に、谷干城、板垣退助、勝海舟の三つの意見書に関しては、それぞれ単独に小冊子として出版されたものが存在する。これは、東京大学明治新聞雑誌文庫以外にも数冊現存している。この三種の小冊子は、体裁がほぼ同じである。寸法はだいたい縦一七・五cm、横一二cmで、表紙は本文と同じ薄い洋紙に、それぞれ「谷干城氏意見書」、「板垣退助氏意見書」、「勝安房氏口演覚書」と表題を印刷している。本文は四〇字・二〇行の漢字平仮名文で、谷と板垣の意見書は二四頁、勝は四頁である(以下、小冊子本と略)。

五 秘密出版書の系列

 南方本には、前述したように、本文の字句を熊楠が補筆した部分が二四カ所ほどある。このうち、重要な修正と考える二二カ所を抜き出し、他の秘密出版書の字句と比べて表にした。また、吉野本に施された吉野作造の多数の訂正のうち、他の本と比較する上で参考となる部分を六カ所、付け加えている。それに、両者の加筆が見られないが、小冊子本のみ異なる字句が二カ所あったので、表に追加した(表 I-11,18)。なお、それぞれの訂正がない場合は、ただ「なし」と表記している。

 本来なら、各意見書の原本に記載された字句も比較すべきであろう。しかし、勝意見書以外は、原本の所在を確認できていない。字句の異同の多い谷意見書と板垣意見書については、『自由党史』に収めるにあたって、前者は『谷干城遺稿』と、後者は「三島通庸文書」(国立国会図書館憲政資料室蔵)所収の写本と校訂している(13)ので、次善の策として『自由党史』の校訂を表の欄に追加した。

 熊楠と吉野との訂正を比較すると、吉野の場合は基本的に誤字・脱字の範囲を越えていないのに対し、熊楠は全く字句を変更していることが確認できよう。これは何かを参考にしなければ、できることではない。谷意見書や板垣意見書における熊楠の補筆が、ほとんど小冊子本の字句と同じであるということは、彼はこの冊子か同系統の本を見ながら修正を施した可能性が高い。今のところ小冊子本系の書籍は熊楠の蔵から見つかっていないが、南方本を送られて以後、熊楠は新たな秘密出版書を入手したのではなかろうか。

 熊楠の修正部分を軸にして諸本の字句を比較すると、南方本・吉野本と宮武本とは一部誤字を訂正している以外は基本的に同じであるのに対し、小冊子本とはかなり異なっている。これは、南方本・吉野本と宮武本とは同系統であるのに対し、小冊子本は違う系列に属していることを示しているのではなかろうか。

 これは字句だけでなく、前述した形状の点でも指摘できよう。即ち、南方本・吉野本と宮武本は四〇字・一三行が基本で、漢字片仮名文であるのに対し、小冊子本は四〇字・二〇行で、漢字平仮名文である。なお、未見の稲生本は、本文の頁割等から判断して、南方本の系列と考えてよい。

 以上から、秘密出版本の前後関係を考察しよう。先ず、一八八七(明治二〇)年八月までに出た谷、板垣、勝、林、ボアソナードの五つの意見書を収めて、南方本・吉野本が刊行された。次いで、これに「松尾清次郎の元老院あて建白書(明治二十年九月廿五日)」を加え、「原規」を付録とした稲生本となる。さらに、付録を除き、松尾の建白部分を頁の数字ともども欠いたままで、一八八八年に提出された尾崎外四名意見書と鳥尾外六名意見書とを加わえて、宮武本が出版されたものと思われる。

 また、南方本では官憲の目をごまかすために「速記法要訣」と印刷した表紙を付けていた。だが、稲生本以降、ことによると吉野本も含めて、表紙が無題なのではなく、何らかの理由で本来の表紙を取りはずしたのではなかろうか。

 『国史大辞典』の「名家意見書」の項では、『名家意見書』が出る前に、小冊子本が「はじめそれぞれ単独で出版配布され」(14)たと解説している。しかし、字句の修正などを比較すると、南方本・吉野本が刊行された後に、小冊子本が出たものと考えた方がよい。

 南方本・吉野本では、表の誤字ばかりでなく、「嗚呼」はほとんど「鳴呼」となっているし、「己」と「已」が混乱しており、校正が不十分なまま印刷した様子がうかがえる。かなり急いで出版したようだ。これに対し、小冊子本では比較的誤字は少ない。

 字句の点でも、原本かそれに近い文献を参照しつつ、ある程度余裕をもって小冊子本を刊行したようだ。谷意見書については表に掲げた字句以外にも、『自由党史』下の註において、宮武本と小冊子本と『谷干城遺稿』との間における文の異同を検証している(15)。これを見ても、小冊子本の方が宮武本より『谷干城遺稿』の文章に近い。つまり、小冊子本の方が完成度が高いということは、後に出版された可能性の方が大きいといえよう。

六 条約改正反対意見書に関する熊楠の所感

 ここで、南方本の遊び紙の六頁目に熊楠が綴った、意見書の所感を検討したい。熊楠の文章は、以下の通りである。ただし、読みやすいように適宜句読点を追加した。

   明治二十年十一月二十三日

 緩歌縵舞絲竹ヲ凝シ、尽日君相視れとも飽ズ。堂上万歳ト唱へ、堂下万歳ト唱へ、一国従テ又万歳ト呼ブ。私ヲ以テ公ヲ枉ゲ、人ヲ以テ民ヲ虐ス、国ノ凶兆豈ニ啻ニ雀ノ鵤ヲ生ムノミナラムヤ。而シテ上下麻痺、睡テ覚メズ、覚テ起ズ。

 谷大臣其先起ツ者、尽言憚ラズ其位ニ尸セズ、是此三千七百万黎民ノ生仏。板垣氏元老、老ニ至テ憂国ノ心益厚シ、奸ヲ摘シ弊ヲ暴ス、曰刃ト同光、徒ラニ 氏ノ塵ヲ忌ムノ故ヲ以テスル者ニ非サルナリ。林氏強項 弾残サズ、殆ド尚方斬馬剣ヲ乞フノ勢有リ。勝氏ノ上書ハ是レ東方生諷諭ノ一流。ボアソナード他ノ為ニ難ヲ拯フテ措ザルノ志、魯連朱家ト雖トモ何ソ之ニ過ンヤ。

 五氏ノ書世ニ出デ五氏ノ意彰ナリ、而シテ睡ル者覚メ、覚ル者起ツ。

 然リト雖トモ覚テ後果シテ如何、起テ後正ニ如何、衆未ダ之ヲ詳ニセズ。 南方熊楠識

 熊楠の文章は三つに分割できる。先ず最初の段落で、中国古典の一節を捩って、意見書が出るまでの日本の状況を風刺した。次に中間の段落で、五つの意見書とその著者の評価を下す。そして最後の四行で、意見書が出て以降の祖国の現状に対する熊楠の思いを綴っている。

 それでは最初の段落を検討しよう。初めの「緩歌縵舞絲竹ヲ凝シ、尽日君相視れとも飽ズ」は、白楽天「長恨歌」の一節をほぼ引用している。原文は「緩歌縵舞凝絲竹 尽日君王看不足」で、意味は「緩やかに歌い、縵やかに舞い、絲竹を凝らして演奏する。尽日、君王は看れども足らず(飽くことを知らない)」となる。即ち、唐の玄宗は政をないがしろにして、楊貴妃との栄華の絶頂におぼれている場面を描写している。ところが、次の「長恨歌」のフレーズではたちまち安禄山の反乱のシーンとなる。つまり、熊楠は「君王」を「君相」と変え、「長恨歌」に仮託して、伊藤博文首相や井上馨外相によって鹿鳴館で頻繁に催された夜会や舞踏会を揶揄し、これが亡国を招くことを示唆するのである。

 次の「堂上万歳ト唱へ、堂下万歳ト唱へ、一国従テ又万歳ト呼ブ」は、「呂氏春秋」の「貴直論(四)過理」の一節を熊楠流に意訳している。この「過理」とは、亡国の君主等の「不適」な行為をいう。原文は「室中有呼万歳者、堂上尽応。堂上已応、堂下尽応。門外庭中聞之、莫敢不応、不適也。」である。この前文では、宋の康王が、天帝の木像を造り、心臓に見立てた血の入った革袋をつり下げ、さらに甲冑をつけ、下から射ぬくと血が降り注いだ。これを見て、側近が王は天に勝ったと賀した。そしてこの文章となる。即ち、「その室中に万歳と叫ぶ者がおり、堂上の者が尽く応じ、次いで堂下の者も尽く応じ、さらに門外、庭中にいた者たちまでがこれを聞いて、応じない者はいなかったが、こうした行為は理義に背いている」という意味である。熊楠は「一国従テ又万歳ト呼ブ」と、単に堂上と堂下だけでなく、国全体が追随している点を批判している。

 続く「国ノ凶兆豈ニ啻ニ雀ノ鵤ヲ生ムノミナラムヤ」という一節も、ことによると中国の古典から引用したものかもしれないが、「鵤」は国字であり、日本の譬えかもしれず、出典はわからない。だが、いずれにしろ、最初の段落では、支配者が鹿鳴館で浮かれ、国全体もそれに付和雷同し、「上下麻痺」した故国の状況を熊楠は嘆いているのである。

 ところで、熊楠は「呂氏春秋」の一文を二か月程前にも手紙に認めている。即ち、以前からよく引用される一八八七(明治二〇)年九月九日付杉村広太郎宛熊楠書簡の一節だ。この書簡で、「日本現状を見れば、世の溷濁もはなはだし」と述べ、中国における同様の暴政の例をいくつか挙げた後、「堂上の人万歳と呼んで、堂下また呼び、一国もまた万歳と呼ぶ。暴政何ぞ一に宋の康王の時に等しきや」と、ほぼ同じ文章を書いている。さらに続けて、「故に、予は後日本の民たるの意なし」との激烈な心情を、熊楠は吐露した(16)。こうした日本の現状に対する熊楠の批判は、意見書を読んで得たものではなく、それ以前からこうした認識を持っていた点は注意する必要がある。

 次に、中間の段落では、谷干城を「三千七百万黎民ノ生仏」と呼んでいるように、意見書を書いた各著者に対し、熊楠自身の言葉で最大級の賛辞を表明している。なお谷は、欧州視察からの帰国の途中でサンフランシスコに立ち寄り、福音会で演説を行なったが、このことが一八八七年六月三日条の『南方熊楠日記』に登場する。もちろんこの時、谷は条約改正内容を知る前だから、反対意見を述べたわけではない。また、熊楠が演説会に出かけた真の目的は、谷よりも彼の秘書官である東海散士・柴四朗に会うことだったかもしれない。なぜなら、渡米前の一九歳ごろ柴の著作『佳人之奇遇』を読み、「一寸の国権を外に延ばすは一尺の官威とかを内にふるよりも急務なり」(17)という内容の一文に感激したと、熊楠はその後しばしば語っているからだ。しかし、谷の演説は熊楠に感銘を与えたようだ。日記にはただ、「演説大意は徳義を研て日本人の恥を招かざれとにあり」と書いているだけである。だが、熊楠は日記に感想めいたことは書かない。それに、演説内容まで書き留めることはほとんどないから、心の琴線に触れ、谷に親近感を抱いたことは間違いなかろう。

 この中間の段落でも熊楠は中国の故事を多用する。先ず、板垣退助に対する文章の中の「 氏ノ塵ヲ忌ムノ故ヲ以テスル者ニ非サルナリ」とは、晋の王導が 亮の権勢をねたみ、西風が起こって塵があがると、扇で塵を払い、 亮の塵は人を汚すと罵った故事を指す。つまり、板垣は嫉みで意見書を書いたわけではないことを表している。

 林有造についての文章に登場する「斬馬剣」は有名な漢の名剣であるが、転じて佞臣を斬る剣を意味する。また、勝海舟の上書を批評した「東方生諷諭ノ一流」の、東方生とは漢の東方朔のことで、彼は諧謔をもって諷諭したという(18)。即ち、林の鋭い筆鋒と勝の洒脱な批評を賞賛しているのである。

 ボアソナードについての言葉で、「魯連朱家ト雖トモ何ソ之ニ過ンヤ」とあるうち、先ず魯連は戦国時代の斉の人・魯仲連のことである。彼は喜んで人の為に困難を排し、紛争を解決する人物であったが、こうした彼の行動ゆえ斉王が爵せんとすると、海上に隠れて終わったという。次に、朱家は漢の魯の人で、義侠を重んじて能く人の窮乏危急を救ったので食客が百を数えた。特に、季布を庇護した話は有名だ。つまり、ボアソナードの義挙は、彼らに勝る行為と激賞しているのである。

 これまでは、もっぱら中国の故事を引用して書いて来たのに対し、最後の四行では、意見書が出た以後の日本の状況を熊楠自身の言葉で直截に語っている。即ち、意見書が出されて、「睡ル者覚メ、覚ル者起ツ」たが、「覚テ後果シテ如何、起テ後正ニ如何、衆未ダ之ヲ詳ニセズ」と述べ、意見書がある程度の効果を与えたが、それ以上に祖国の人々が動こうとしない現状に落胆しているのである。しかし、これを逆に見れば、条約改正問題に対する熊楠の熱い思いが読み取れるだろう。

 それでは、この秘密出版書がはたして、熊楠にどのよな影響を与えたのであろうか。

 南方本を読んだから、熊楠が条約改正問題に代表される日本の実態に不満を持ったわけではない。それは、前述した二か月前の杉村広太郎宛書簡で明らかだ。しかし、この秘密出版書によって、彼がさらに刺激を受けたことは間違いなかろう。

 ここで注目されるのが熊楠と新日本新聞社との関係だ。在米民権家がオークランドで発行した『新日本』は、明治政府がもっとも嫌った反政府新聞であった。熊楠がこの秘密出版書に所感を綴ったのが一八八七年一一月二三日であり、新日本新聞社の最初の手紙が彼のいたアナーバーに届いたのが一週間後の一一月三〇日である。この手紙で、熊楠は新日本新聞社の通信員になることを依頼された(19)。そして、彼が承諾したことはほぼ間違いない(20)。つまり、この条約改正反対意見書を読み、故国の現状に対する不満を募らせたことが、熊楠がこの「危険」な反政府新聞の通信員になった要因の一つと考えても大過なかろう。

七 条約改正問題と南方熊楠― 結びにかえて ―

 最後に、南方熊楠と条約改正問題との関係について言及し、本稿を閉じることにする。ただし、この問題についての考察は今後の課題とし、ここでは「覚書」程度のことしか述べられない。

 南方熊楠が在米時代に自由民権運動と関係を持ったことは、新日本新聞社の積極的な協力者であったことからも、紛れもない事実である。そして、このことが熊楠の国家観を転換させる一つの要因となったことも、すでに指摘した(21)

 しかしこの時期、熊楠が政治運動に係わったのは、自由民権そのものに関心をもったからとは言えないのではないか。むしろ、彼を撃き動かしたのは条約改正問題であったと考えた方がよいように思う。もちろん、条約改正は自由民権運動の三大要求の一つである。だが、熊楠が自由民権運動そのものに強く惹かれていたなら、すでに東京時代に何らかの行動を起こしていたはずだ。確かに、激化事件の裁判や刑の執行を彼は日記に書いている。けれども、そこには熊楠自身の感想は何も書かれていず、ただ淡々と記事を写しているだけだ。熊楠がこうした事件に興味を示していたことは間違いない。ただし、それ以上でも、以下でもないのである。

 東京時代、熊楠の周りには、有地芳太郎(後の小笠原誉至夫)のように民権青年がいた。そして、有地を通じて小沢正太郎を知り、小沢が熊楠と新日本新聞社とを結びつけた可能性が強い(22)。だが、東京時代に熊楠が民権運動そのものと関係を持っていた形跡は見当らない。むしろ、有地などとは一線を画している。熊楠が行動を起こすのは、条約改正反対運動が盛り上がった一八八七(明治二〇)年以降である。

それでは、なぜ熊楠は条約改正問題に強い関心を示したのであろうか。『佳人之奇遇』に感激した熊楠にとって、これはおろそかにできない問題であったろう。なおこの政治小説は、柴四朗が在米留学時代の構想をもとにして、完成させたものだ。また、白人社会の中で生活し、様々な人種的差別を体験した熊楠にとって、政府の屈辱的な条約改正条件に我慢できなかったことも、理由の一つとして考えられよう。しかし、それ以上に彼が批判したかったのは、明治政府が進めていた皮相な欧化政策とそれに追従した当時の世相だったように思う。たとえば、四〇年以上後のことだが、一九二九(昭和四)年三月一三日付山田英太郎宛書簡で熊楠が述べている以下の言葉は、彼の拠って立つ位置を雄弁に物語っていると言えないだろうか。

 去年死せし志賀重昂氏は、明治二十年ごろ井上、伊藤、陸奥等が日本をむやみに欧米化してその下風に安んぜしめんと企てたる際、屹然国粋主義を唱え出せし人にて、今日までも日本人が外国の走狗となり了らざりしは、この人の力多きにおる。死亡に臨み南方はわが先に立って行くべき人なりとて、その全集を出板するに第一の序文を小生に望むよう遺言され候由、その男富士男氏より申し来たり候。(23)

 志賀重昂たちの政教社に代表される国粋主義と南方熊楠の思想が、全く同一とは言えない。その最大の差異は、一つには彼我の国家観の違いであると思う。明治二〇年代の国粋主義は、昭和期のそれのようにファナティックな超国家主義ではない。しかし、政教社の人々が、日本という国家を第一に考えていたことは間違いなかろう。これに対し、熊楠は国家そのものを相対化する視点を獲得していた。両者のもう一つの違いは、これと関連して、政教社が自国の復権を主要目的にしたのに対し、熊楠はあくまで東洋の再興を目指した点にある。しかし、熊楠が彼らにシンパシーを感じていたのは間違いなかろう。たとえば、熊楠が「神社合併反対意見」(24)を政教社の雑誌である『日本及日本人』に掲載したのも、このことと無関係ではない。

 条約改正問題を主要な契機として思索と活動の矛先を、熊楠が明治政府の欧化政策とその追随者たちへの批判に向けたと考えると、いろんなことが見えてくるように思う。即ち、熊楠がこの時期、欧州からもたらされた大乗非仏説論とその聴従者に対抗して仏教の復興を目指したのも、このことと決して無関係ではなかろう。

 また、この後なぜ禁酒をめぐって、いわゆる「日本人留学生禁酒決議事件」という騒動を熊楠たちが起こしたのか納得できるのである。それは、熊楠が単に酒好きだったからだけではない。禁酒法に代表されるように、禁酒こそ、ピューリタニズムの伝統の強いアメリカ社会の一つの思潮であった。しかし、熊楠が批判したのは、禁酒思想そのものというよりは、欧米の考えを無定見に受け入れ、卑屈に追従する留学生たちの行動であった。しかも、その代表者が、欧化政策の頭目の一人である陸奥宗光の子分ともいうべき長坂(岡崎)邦輔だったのである(25)

 しかし、以上の点は史料的裏付けなしに主張しても始まらないので、詳細は次回明らかにしたい。

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 注

(1) 拙稿「新日本新聞社からの手紙」『文学』第八巻第一号(岩波書店、一九九七年一月)。

(2) 藤井甚太郎「『ボアソナード外交意見』解題」『明治文化全集 外交篇』(日本評論新社、一九五六年改版)三二頁。

(3) 『自由党史 下』(岩波文庫、一九五八年)二七九頁。

(4) 『雪月花―西潟為蔵回顧録』(野島出版、一九七四年)八七頁。

(5) 『明治文化全集 正史編上』(日本評論新社、一九五六年改版)五九四頁。

(6) 前掲『自由党史 下』三一七〜八頁。

(7) 『国史大辞典』第一三巻(吉川弘文館、一九九二年)七一八頁。

(8) 今中次麿「『西哲夢物語』解題」『明治文化全集 憲政篇』(日本評論新社、一九五五年改版)二一頁。

(9) 「自由民権派秘密出版事件」『国史大辞典』第七巻(吉川弘文館、一九八六年)三〇七頁。

(10) 前掲注(2)

(11) 前掲『自由党史 下』四〇三〜四頁。

(12) 稲生典太郎『条約改正論の歴史的展開』(小峯書店、一九七六年)五九五〜六頁。

(13) 前掲『自由党史 下』二一八〜二四五頁及び二四七〜二七四頁。

(14) 前掲注(7)

(15) 前掲『自由党史 下』四〇四頁。

(16) 『南方熊楠全集』第七巻(平凡社、一九七一年)七六頁。

(17) 「一九一一(明治四四)年一〇月一七日付柳田国男宛熊楠書簡」『南方熊楠全集』第八巻(平凡社、一九七二年)二〇一頁。なお、「一九一八(大正七)年三月二七日付上松蓊宛熊楠書簡」『南方熊楠全集』別巻1(平凡社、一九七四年)三三頁、でも同様のことを語っている。

(18) 飯倉照平氏のご教示による。なお、その他の中国の故事は『大漢和辞典』(大修館書店)に掲載されている。

(19) 拙稿「在米民権新聞『新日本』と南方熊楠」『ヒストリア』第一三六号(一九九二年一〇月)。

(20)及び(21) 前掲注(1)

(22) 前掲注(19)。なお、有地芳太郎については、拙稿「小笠原誉至夫と南方熊楠」『竹馬の友へ 南方熊楠小笠原誉至夫宛書簡』(八坂書房、一九九三年)を参照されたい。

(23) 前掲『南方熊楠全集』別巻1、三二五頁。

(24) 前掲『南方熊楠全集』第七巻、五六六〜五九四頁。

(25) 本誌前号の拙稿「南方熊楠対長坂邦輔」で明らかにしたように、両者の抗争の原因は、単に考え方の問題だけでなく、その背景に生々しい当時の政治的対立が存在した。

 〔付記〕史料調査にあたって、東京大学明治新聞雑誌文庫、国立国会図書館、高知市立自由民権記念館、神戸市立博物館、小池満秀氏のお世話になった。また、飯倉照平氏、松居竜五氏、三尾功氏、板原哲夫氏にはいろいろ御教示頂いた。ここに記して感謝の意を表するしだいである。

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