調査研究メモのページへ <r>

サイトのホームへ <0>


《ミナカタ通信2号 (1996.3.20) より》

ロンドン通信

−熊楠の足跡を求めて−

武内善信     

 3月7日(1996年)朝、関西空港を出発し、フィンランド航空でヘルシンキを経由しロンドンに向かう。途中いつ下を見ても白いロシアの大地が広がり、あらためてロシアの広さを痛感する。ヘルシンキ空港はこじんまりとした空港で日本人の地上乗務員がおり、値段的にも位置的にも乗り継ぎには最適。フィンランドはまさに森と雪の世界であった。北欧のゆえか、なかなかスタイルの良い美人が多い。

 時差の関係で、同日夕刻ロンドン・ヒースロー空港に到着。キングズ・クロスのホテルに泊まる。ここは鉄道の駅があり、地下鉄も何本も交差しており、至極便利な場所である。東京で言えば上野、大阪で言えば天王寺という感じの下町で、ホテルも外観は良くない。だが、内部はこぎれいでまあまあ良好。

 8日、午前中はお上り観光。グリーン・パークを散策して、バッキンガム宮殿に行く。観光客相手の個人写真屋が近寄ってきて、しきりに撮影を求める。罪のないおやじさんで、断ったにもかかわらず親しくなり、もうすぐエリザベス女王が出てくると教えてくれた。ミーハー気分で門の前で待ち構えていると、紋章の旗を上に立てた車が白バイの先導で出てきて、派手な赤いコートを着た女王が手を振っているのをすぐ近くで見る。女王はこの日ケンブリッジに行ったとのことで、松居竜五・原田健一両氏もケンブリッジの駅で会った由。警備は日本のように厳重ではない。原田氏が写真機を持ってうろついていても、とがめられなかったとのこと。ウエストミンスター寺院を拝観した後、国会議事堂の内部を見学するため中に入ったが、松居氏との待ち合わせの時間となり、残念ながらあきらめる。

 1時に大英博物館の正面玄関で松居氏と会い、館内で昼食。その後、ロンドンの宿探しに行っていた原田氏とも合流。松居氏の尽力で、普通では入れない英国図書館への入館カード(2001年まで有効)を入手。熊楠やマルクスが勉強部屋にした円型大閲覧室に入る。静寂の中にもある種緊張感が漂う独特の雰囲気に圧倒される。熊楠が座ったと思しき場所に行き、しばし感慨にふける。松居氏に各部門を案内してもらった後、熊楠が通ったであろう博物館前のパブ(『南方熊楠アルバム』P62中段の写真)に入り、「ビッター・プリーズ」。

 6時にハイ・ストリート・ケンジントン駅で牧田健史氏と会い、熊楠の2番目(ユーストン駅前の宿を含む)の下宿に向かう。6時半に今の住人が出かけるとのことで、走って行く。牧田氏の計らいで熊楠が住んだ二階の部屋に入れてもらう。内部は少し改装したというが、思っていた以上にこじんまりとした部屋であった。当時はトイレは外にあったとのこと。熊楠が小便をためた尿壺を室内でひっくり返し、下宿の主婦に大目玉を食った話も理解できる。また、三階に出る熊楠(?)の幽霊の話も聞かされた。お出かけの時間になったので早々にお暇し、熊楠が通ったであろう近所のパブに入り、「ビッター・プリーズ」。この日は金曜で、パブは大賑い。牧田氏に熊楠が大英博物館に寄贈した書籍(『水族志』等)の書き込み部分のコピーを見せて頂く。牧田氏と別れ、ソーホーの中華料理店で夕食後、松居・原田両氏と日本の新宿二丁目というべきあたりを徘徊する。

 9日はベイズ・ウォーターヘ行き、「ロンドン私記」で熊楠が「クレンミー嬢」と再会した酒店があったと思われるあたりを写真撮影。熊楠がイギリスに来た当初、「牧羊夫の中に座して読書し」(「履歴書」)たケンジントン・ガーデンを散策し、科学博物館を見学した後、、熊楠がロンドン時代後半に通った自然史博物館とヴィクトリア&アルバート美術館(南ケンジントン美術館)に入る。三館とも展示品の多さにあきれる。土曜日のためか、親子連れが多い。V&A美術館には日本のコーナーがあり、陳列品には熊楠が整理を手伝ったものもあろう。浮世絵などは、どちらかといえばマイナーな北洲や国広といった上方浮世絵を展示してあり、収蔵品の多さを窺わせる。

 美術館のすぐ南にある4番目の下宿を撮影し、次いで下宿近くのフラム・ロード沿の美人のかみさんがいる酒店があったと思しき場所を写真に撮る。ここは「ロンドン私記」で熊楠が「クレンミー嬢」と初めて会った酒店で、日記にもしばしば登場する。さらに、サウスケンジントン駅の北にある「アルフレッド・ロード24番のイタリー・コーヒー店」のあった場所に行く。ここも「ロンドン私記」に登場し、熊楠好みの美人の主人がいたところ。なお、以上の場所は、一昨年ロンドンを訪問した小笠原謙三氏がだいたいの位置を推定してくれていたので、大助かりであった。

 10日朝キングズ・クロス駅で原田氏と会い、鉄道で松居氏のいるケンブリッジに行く。ロンドンを初めて離れ、車窓に広がるイギリスの田園風景を楽しむ。松居氏のカレッジを訪問し、氏の案内でケンブリッジ大学のカーメン・ブラッカー先生のお住居に徒歩で向かう。ケンブリッジの街中を離れ、家一軒見あたらない郊外に出る。果たしてどこまで行くのかと不安にかられたが、50分ほど車道を歩いて先生の家に到着。先生は上品でスマートな方。原田氏はしきりと文章を読んだイメージと違うとのたまう。室内は東洋研究者で民俗学者らしく、日本の提燈や朝鮮の民俗信仰の用具など東洋の数々の品々で飾られていた。凍傷の熊楠が書いた犬の「チン」の話など、「ベリー・インタレスティング」な動物談議に花が咲いたが、先生はこの日子羊の誕生祝いに行く約束があり、一時間ばかりでお暇する。川沿いの草原の道をハイキングして街に帰る。この日イギリスでは珍しく穏やかに晴れわたり、日曜日であったのでケンブリッジの地元の人たちがたくさん散歩していた。イギリス人が日曜日の午後をどのようにすごすのか、その一端をかいま見る。

 タイ料理での昼食後、松居氏にケンブリッジの街中を案内してもらう。まさに西洋の中世の街角に来たかのような錯覚にとらわれる。当然、途中パブに入り「ビッター・プリーズ」。ケンブリッジの地ビールはなかなか美味い。松居氏の研究室を訪問した後、パブでケンブリッジ大学図書館の小山氏と会う。小山氏から熊楠の友人である美術骨董商の加藤章造の死亡記事のことなど、興味深い話をうかがう。後々熊楠研究会の学会誌が出来たあかつきには、小山氏に「ロンドン日本人銘々伝」といったものを連載してもらえればと思う。インド料理を食し、再びパブでビールを飲んだ後、最終列車でロンドンに帰る。

 11日は前日に引き続き、天気が良かったので市内を観光。セント・ポール大聖堂を拝観後、シティへ行く。イングランド銀行や熊楠が世話になった中井芳楠支店長の横浜正金銀行跡地などを歩く。コンビナートの様なロイド保険のビルは、評判が悪いのもうなづける。次いで、無残な事件と血にまみれたロンドン塔に入る。ここには武器や拷問・処刑の道具と歴代の王冠や宝石といった、まさに対照的なものを展示している。逆にいえば、これが権力の本質か。熊楠の頃、知り合いの「ジーロン子爵」が武器庫長をしていた場所。昼食後、タワー・ブリッジに上る。この橋は1894年に建造されており、まさに熊楠がいた時である。

 地下鉄でウエスト・ミンスターに行き、再び国会議事堂の内部を見学しようと思ったが、長蛇の列で断念する。これとキュー・ガーデンに行けなかったのが、心残りである。しかたがないのでパーリアメント・ストリートを歩き、首相官邸(ダウニング街10番地)やホワイトホールを見学しながら、ナショナル・ギャラリーに入る。数々の名画がところせましと並んでいるが、レンブラントの2点の「自画像」とゴッホの「ひまわり」が何と言っても秀逸。閉館後、原田氏との待ち合わせのため、ハイド・パークのスピーカーズ・コーナーに行く。ここは熊楠がよく訪れ、時には演説した所。原田氏と生まれて初めてレバノン料理を食べる。料理はなかなか良かったが、アラブの店で酒がないのに当惑する。しかたががないので、食後パディントン駅近くのパブで「ビッター・プリーズ」。ここのビールは、泡立ちが良くクリーミーで美味。ウエーズルからアイルランドに行く原田氏と別れ、田辺での再会を約す。

 12日、丸一日かけて大英博物館の展示品を見る。しかし、一日かけても全部見きれなかった。ロゼッタ・ストーン、ハムラビ法典、パルテノン神殿のエルギン・マーブルそれにマグナ・カルタ、シェイクスピアなどの自筆原稿、バッハ、モーツアルト、ベートーベンなどの自筆楽譜と、超一級の資料に圧倒される。しかし、エルギン・マーブルに代表されるように、略奪に近い品々も多い。歴史的資料は、本来あるべき歴史的建造物や歴史的環境の下でこそ十全な役割を演じるものである。これは、所蔵資料の少ない博物館学芸員の愚痴か?

 展示品だけでなく職業柄、展示方法や博物館教育にも関心が向く。特に、イギリスの小学生やフランスの中学生といった学校の団体客が多く、生徒たちがどのように見学をしているのか気になった。見ていると教師が必ずプリントを用意し、展示品についての設問に答えさせるばかりでなく、スケッチさせていた。展示品を描かせるのが、物を観察する上で最良の方法であろう。これは、熊楠の研究方法に通じるものである。閉館後、再び向かいのパブに入り、ロンドン最後のビールを味わう。

 13日朝、ヒースロー空港からヘルシンキ経由で関西空港に帰る。途中、ヘルシンキで夕焼けを、シベリア上空で朝焼けを見る。特に、シベリアの白い大地が夜明けとともに、先ず山の頂を淡いピンク色に輝かせ、次いで稜線を染め、色の波が徐々に麓へと拡がっていく光景は、筆舌に尽くしがたい美しさであった。だが、それにも増して今回素晴らしかったのは、ブラッカー先生や牧田氏、小山氏との出会いであり、熊楠研究者のネット・ワークは海外へも着実に拡がっていることが確認できた旅であった。

[このページのはじめへ]

[挿画: 三酔人倫敦角軒酒場に談ず、一名竜動夜会之図]

画:安田忠典


調査研究メモのページへ <r>

サイトのホームへ <0>