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 南方熊楠ゴワンズ社宛書簡下書きについて

松居竜五     

ウェブサイト管理者注:本論文中で言及されている資料1-3は、The Drafts of Minakata's Letter to Gowans Publishing Company として別掲しました。

一 南方熊楠の日本古典文学英訳に関する資料

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 南方熊楠が生涯になした幅広い学問的業績の中で、日本古典文学英訳の試みは、これまで意外に研究が進んでこなかった分野である。F・V・ディキンズによる『日本古文編』への協力や、『方丈記』の共訳などは、熊楠の海外における学問活動の大きな目玉として伝記や年譜ではかならず言及されるのだが、その詳しい内容についてはあまり定かではなかった。

 このことの背景には、主に中心となるべき資料が欠落しているという問題がある。そのほとんどがディキンズとの共同作業によって行われたこれらの仕事を正確に評価するためには、熊楠からディキンズに宛てられた数十通、あるいは百通に達したかと思われる英文書簡こそが、最大の資料となるはずのものである。土宜法竜宛書簡で曼陀羅論、柳田國男宛書簡で民俗学論を展開したように、熊楠には特定の相手に向けて特定のテーマで私信を送り続けるかたちで自らの学問を展開する傾向があり、ディキンズ宛ての日本古典文学研究・翻訳書簡もそうした彼の主要書簡シリーズの一つとなるべきものであろう。

 しかし、一八九六年から一九一五年のディキンズの死の直前まで、二十年間にわたってロンドン・那智・田辺から送られ続けたこれらの書簡は未発見であり、今後も見つかる可能性がかなり薄い。ディキンズ自身は、生前には熊楠からの書簡を自らの翻訳のための資料として保存していたであろうが、現在九十三歳という孫のダグラス・ディキンズ氏とロンドンで面会した牧田健史氏によると、その死後、「手紙などの個人的な文書類一切は遺言によって焼却された」(1) らしい。同じ牧田氏によるディキンズ蔵書の調査(2) においても、書簡の類は見つかっておらず、こうした情況から見て、ダグラス氏の言葉通りに、他の書簡・文書と一緒に熊楠の日本古典文学翻訳作業も灰となってしまった可能性が高いのである。

 一方、ディキンズから熊楠に送られた手紙は、計四十八通が旧邸書庫と記念館に現存することが、今までの調査によって確認されている。その内容は、近況報告的な短信から長文の文学論まで幅広く、また中には断片的なものも多いが、きちんとした整理・分析が行われれば、熊楠からの通信の欠落をおぎなって、共同作業の全体像をある程度まで復元することが期待されるものである(3)

 さらに、こうしたディキンズからの書簡に混じって、実は熊楠による日本古典文学翻訳関連の自筆資料もわずかではあるが存在する。それが、今回翻字資料として紹介する『方丈記』翻訳のための下書きと、ゴワンズ社宛ての長文書簡の下書きである。ともに、英文を書く際の苦心惨憺の推敲の跡が窺える資料であり、熊楠の肉声が聞き取れるという意味では、むしろ完成稿以上に興味深い資料であるとも言えよう。

 このうち、英訳『方丈記』下書きについては、本号に小泉博一氏の解説があるので詳細はそちらに譲るが、一九〇三年に那智山で書かれたもので、ディキンズの手を経た決定稿とは大きく異なっていることが注目される資料である。そしてもう一つが、一九〇九年に書かれたゴワンズ社宛ての返信の下書き(資料1)である。反古を出さないという熊楠には珍しく、考えあぐねて何度も直した跡のある草稿である。それも道理で、十一頁にわたる長文のこの書簡は、きわめて長い時間をかけて推敲されたことが当時の熊楠の日記から読みとれる。私信とはいうものの、同時に文学論・翻訳論とも呼びうるものであろう。熊楠は浄書・投函の後、おそらく控えとしてこの下書きもとっておいたのであろうが、こうした熊楠の翻訳に関する考えの一端を窺うことのできる貴重な資料が残されたのは、我々にとって幸運なことであったと言える。

二 ゴワンズ宛て返信の経緯

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 では、この一九〇九年のゴワンズ社宛ての長文書簡はどのようにして書かれるにいたったのか。ここまでの関連する事柄を年代順に並べてみると次のようになる。

 つまり、ロンドン滞在時代に始まった熊楠とディキンズの交友は、熊楠の帰国後、共同作業である『方丈記』英訳に結実した。その学会誌に掲載された『方丈記』英訳に目をつけたゴワンズ社が、これを商業出版物として刊行するという順序で進んでいる。

 ゴワンズ社は一八三〇年代からグラスゴーで出版業を営んでいる会社であるが、一九〇五年からは編集長のアダム・ルーク・ゴワンズの肝煎りでインターナショナル・ライブラリーと題する海外作品の紹介シリーズを展開している(4) 。『ヴィクトル・ユゴー傑作詩選』から『エジプト民譚集』『中国箴言集』などが並ぶこのシリーズの第一五巻として選ばれたのが、『方丈記』であった。

 ディキンズがゴワンズ社と関わりを持ったのはこの英訳『方丈記』出版の時が初めてであったようである。そして、この翻訳の評判がよかったからか、ディキンズは一九一〇年には初期の翻訳作品『忠臣蔵』を同社から復刊、また一九一二年には『飛騨匠物語』翻訳を刊行するなど、両者の関係は良好であったことが窺える。実は、後述するように編集長のアダム・ゴワンズ自身が日本文学に関心を持ち、日本語も勉強していたのであり、おそらくディキンズとも話が合ったことが推測されるのである。

 こうした情況にあって、ディキンズが十年来の共同作業者であった熊楠のことを、ゴワンズ社に紹介したのは自然のなりゆきであっただろう。英訳『方丈記』出版に際しては、熊楠との共訳であったものを承諾なしにディキンズ訳に直してしまったという経緯も、彼をして多少の後ろめたさを感じさせることであったのかもしれない。

 そこで、ディキンズから紹介を受けたゴワンズ社は、一九〇九年一月七日付けで熊楠宛に次のような書簡(資料2)を送ることになったのである。

 親愛なる貴下へ

  貴下の日本語と英語に関する該博な知識については、F・ヴィクター・ディキンズ氏から聞き及んでおります。

  さて、私ども目下、馬琴の小説の中で最良のものについて、英語圏の読者に理解できない固有名や慣習について説明した注釈をつけたかたちで、正確な翻訳を刊行するという実験的な試みを行いたいと考えております。もし、貴下がこの仕事をお引き受け下さる場合、どの小説がよいかというご意見とともに、作業にかかる費用はいかほどかをお知らせいただけませんでしょうか。私どもに支払える額かどうか検討したいと存じます。 敬具

    ゴワンズ&グレイ社 編集長 A・G

 A・Gとはおそらくアダム・ゴワンズその人のことと考えてよいであろう。Directorをここでは「編集長」と訳しておいたが、「社長」あるいは「社主」としてもよいかもしれない。英国から日本まで船便で一ヶ月余りかけて運ばれたこの手紙が、二月十五日に田辺の熊楠の許に届いたことが、日記中の次のような記述からわかる。

 [受信]グラスゴーの出板業Gowans & Gray Ltd.状一(馬琴の小説翻訳の事問合せ、ヂキンス氏より予の名聞しと。一月七日出、此状の返事は三月二十日出す也)

 熊楠にしてみれば、ディキンズからの紹介で仕事の依頼が来たことには、悪い気はしていなかったにちがいない。また、ロンドン時代に日英の物価の差に苦しめられた熊楠にとっては、今度は逆に英国からの翻訳料は日本ではまとまった収入になるという計算もあったであろう。もとより、馬琴は熊楠にとってはお気に入りの作家であり、その英語圏への紹介という作業には自負するところもあったものと思われる。

 そうした思惑を持って、熊楠は返信を書こうとするのだが、実際には熊楠はこの作業にずいぶん手間取ることとなった。二週間後の三月四日の日記には、「グラスゴウ市Gowans & Gray状一」と書いた後、「明夜出す、つもりの処後れ明後日出す、つもりの処おくれ後れて、実は十三日出す也」とあるのだが、実際にはこの十三日にもまだ書いている最中で、結局、投函したのは最初の受信欄にあったように三月二十日のことであった。ほぼ一ヶ月近くを、この返信に要した計算である。

 熊楠自身、返信の書き出しの部分でそのあたりのことを詫びているので、原文を見てみることにしよう。

 拝復、一月七日付貴書簡を先月十五日に拝受いたしましたので、謹んでご回答いたします。返信が遅れましたのは、馬琴の驚異的な小説作品のうちでどれが貴社のご依頼にもっとも適するかを選定する前に、慎重な考察をしたいと思ったことが主な理由です。

 さらに熊楠は続けて、「馬琴が八十余年(5) の生涯に二百九十作を上梓したほどの精力的な書き手であり、そのうちの少なからぬ部分が未公刊であること」を挙げて、この選定が特に難しいものであったことを訴えている。

 ここから、細字で全十二頁に及ぶ長い書簡が始められるわけである。その詳細については原文をお読みいただくに如くはなく、また全訳に関しては他の機会を待つこととするが、ここでは重要な箇所のみを取り上げて紹介して行くこととしたい。

三 返信の内容一 馬琴・翻訳について

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 熊楠はまず、作家としての馬琴の特色から話を始めている。この部分は熊楠の文学に対する見方の特徴があらわれていて興味深いところなので、そのまま訳出してみたい。

 現在、日本人であれ外国人であれ、日本文学に造詣のある人で、馬琴をこの国が生んだ最高の作家として認めないものはないでしょう。おそらく、『源氏物語』の女性作者は唯一の例外でしょうが、すでに末松男爵によってまずは許容範囲内の英訳がなされておりますし、これは高貴な階級の生活と、まったく不道徳なものとさえ言える恋愛交渉のみを描いています。その一方で九世紀も前に書かれたこの作品を読んでも近代の日本社会への理解にあまり役立つものではありません。

 我が国の存命中の偉大な評論家である坪内博士は、馬琴を日本のスコットと呼びましたが、この意見には相当な真実があります。馬琴とスコットが同時代を生きた、というだけではなく、その著作はお互いに多くの面で類似点があります。流れるような語り、厳かな作風、透明な文体、啓蒙への情熱、そして膨大な博識から取り出した史実と奇想の数々。

 道徳という面に関しては、馬琴の小説は一級のユーモアがふんだんにちりばめられているものの、彼と同じ時期のほとんどの作家が多かれ少なかれ不作法や粗野な面を有していて、まさにそのえげつなさで評判を確立したのとはちがって、そうした要素から奇妙なほど縁遠いものなのです。実際、馬琴のすべての文章は道徳観の欠如の横行から完全に潔白なものであったために、一八四二年の厳しい幕政改革(訳注、天保改革)にあって、他の著名な小説家のすべてが厳しく罰せられ、官能的表現の旗手であった作家(訳注、為永春水)が獄死するという情況の中で、彼だけは取調官の猛烈な追求にもかかわらず、一人しずかにお咎めなしという状態を享受しつつ旺盛に創作活動を続けたのでした。ですから彼の文章は、省略や削除をまったく施す必要なしに、慎み深い英国人読者に提供することができるものなのです。

 末松謙澄による『源氏物語』英訳や、坪内逍遙の『小説神髄』中の馬琴とスコットの比較などが語られていて、熊楠がこうした文学関連の話題に目配りをしていたことがわかる。一方、後半部分では、熊楠はしきりに馬琴がいわゆる下ネタと無縁な作家であることを繰り返しているが、これはおそらく熊楠自身でのロンドンでの体験に基づく懸念であろう。

 つまり、熊楠が滞在した十九世紀末のヴィクトリア朝英国は、倫理観の締め付けが厳しかった時代にあたる。熊楠はとりわけ性的なタブーに関する検閲に対して敏感に反応しており、「ロンドン抜書」にはヴォルテール『哲学事典』における少年愛などの項目が、英訳版では大幅に削られていることを書き抜いて分析したりしている(6) 。つまり熊楠はこうした検閲の例と比較しながら、江戸戯作中のあからさまな性描写が、英国社会そして英国人読者には受け入れがたいのではないかとかなり本気で心配しているわけである。

 しかし、一九〇九年といえば、英国はもはやヴィクトリア時代ではない。ハヴロック・エリスによる『性の心理学研究』(一八九七〜一九一〇年)もほぼ完結するなど、従来のタブーを破るような言説も輩出しており、性に関する意識は十年前とはかなり変わっていた。おそらく熊楠の心配は、アダム・ゴワンズにとっては杞憂と見えたことであろう。

 次に熊楠は、「すべての文章の中で翻訳ほど難しいものはない」というアレクサンダー・ポープの言葉を引用しながら、日本語の文章を英語に翻訳していくことの難しさについて述べている。「教育を受けたアメリカ人や他の植民地の人々が、普通の英国人が当然のように話す英語を聞き取ろうとして頭を悩ませるのだから」という言い回しは、熊楠一流の当てこすりであるが、これもロンドンでの実体験が反映されていて興味深いところである。もちろん、「まして言語体系のまったくちがう日本語から英語への翻訳となれば」、という部分が熊楠が強調したかった点である。熊楠は二十五歳のアメリカ時代に友人三好太郎宛書簡で早くも翻訳論を語ったことがあり、その際にも「一国の文体を詞も意も兼ねて失わずに訳出することは、すべて多少の難件あり」(7) としている。それから二十年後のこのゴワンズ宛書簡でも、比較文化的な観点から来る翻訳の難しさと、重要さという同じ主張を繰り返していることが見て取れる。

 さらに熊楠は、日本文学の前提となっている伝統・風習・生活はヨーロッパのものとまったくちがい、また中国・モンゴル・朝鮮・インドなどから入ってきたものも少なくない。だから、それらに関するきちんとした解説をつけなければ英語圏の読者にとってはわかりにくいのだとする。これは三好宛書簡で「しかして日本文章のごときは、語種も語統も異なる上、許多のむつかしき来歴由緒あるインド、漢土、歴朝の故事を雑え、……」(8) と書いた部分に相当しているといってよいだろう。とりわけ、馬琴はこうした重層的な日本語を駆使する作家であるが、熊楠はそのことを、シェイクスピア学ならぬ馬琴学が必要なくらいの博覧強記であるとしているのは、なかなか興味深いところである

 こうした前提とともに、四十冊ばかりの馬琴の小説を読み返した熊楠が選んだ一冊は、『夢想兵衛胡蝶物語』であった。これは、馬琴中期の戯作で、漁師をしていた夢想兵衛という主人公が浦島太郎に出会い、譲られた釣り針を凧にしてさまざまな空想上の国をめぐるという筋立てのものである。夢想兵衛が訪れる国は順に、

  (1)少年国 (2)色慾国 上品 (3)色慾国 中品 下品 (4)強飲国 (5)貪婪国 (6)食言郷 (7)煩悩郷 (8)哀傷郷 (9)歓楽郷

という、それぞれに荒唐無稽な風習を持っている国々で、そうした空想社会との比較によって、同時代の現実をあぶり出すところが、この作品の骨子である。

 熊楠は、この『夢想兵衛胡蝶物語』をジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』と同趣向の小説として紹介している。たしかにこの作品は、長からず短からず、それでいて内容的にも波乱に富んでいるという点から、翻訳に適したものであろう。国ごとに話が切れていることからも、馬琴の入門編として読みやすい作品だと言える。実はこの『胡蝶物語』は熊楠の古くからの愛読書で、前出の三好太郎宛書簡においても『羇旅漫録』とともに『胡蝶物語』に言及している。また、晩年の三田村鳶魚による「胡蝶物語輪講」にも寄稿するなど、生涯を通じて関心を継続させていた。そうした点から見て、四十二歳の熊楠がこれを英訳すべき馬琴小説中の一として、ゴワンズに推薦したのは、かなり無理のない選択であったと言えるだろう(9)

四 返信の内容二 事情説明と仕事の進め方への提案

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 さて、熊楠にとってこの手紙は、翻訳に際しての条件をなるべくよくするための交渉という側面を持つものであり、行間からはそのような方向性もかいま見える。たとえば、自分の現在の情況に関して、忙しさを強調している。

 私の数ならぬ名前が『ネイチャー』や『ノーツ・アンド・クエリーズ』といった日本語および英語の雑誌に頻繁に載ったため、私の原稿を出版したいとか、重要な翻訳作業に携わってほしいといった依頼が、海外から数多く寄せられるようになりました。中でも特に、米国政府からの二年越しの申し出は、寛大で魅力的なものでした。私はそうした申し出をずっと断ってきたのですが、それは私が、過去四年間はこの小さな町に住みながら、ここを拠点にさまざまな深山や海に分け入って、この地域の下等植物の採集を行うという、ロンドンからの帰国以来八年間にわたって続けてきた研究に没頭していたためです。

 そうした情況にもかかわらず、今回のゴワンズ社の依頼は、他ならぬ自分の後見人であるF・V・ディキンズの紹介であるから、特別に考慮しなければならないと思っている、と熊楠は続ける。しかし、馬琴の翻訳はたいへんな作業である。特に、『胡蝶物語』のような作品を翻訳する場合には、そこに多用されている駄洒落や語呂合わせといった言葉遊びが大きな問題になってくる、というのが熊楠が次に強調しているところである。

 この駄洒落、語呂合わせこそが、日本語・日本文学を芸術として高めている重要な要素であるということは、熊楠が以前からつよく主張していたところである。前出三好太郎宛の書簡では、「托」つまり「詞の縁にてつながる」といった言葉で、日本語の特徴が語られていた。また、この後一九一一年に書かれた柳田國男宛の書簡でも、「……日本人が、語呂を用うることを全く捐つるの日は、これ日本の文章が地を掃うの日と知るべし」(10) と、語呂、pun の重要性が述べられるのである。

 文章の流れを壊すことなく、こうした言葉遊びの要素を、翻訳にどう取り入れていくか。この問題について、熊楠は自分がディキンズとの協力の中で、『方丈記』などの翻訳の際に用いた方法を採用してみたいということを提案する。熊楠によれば、それは「意味をかけられた文章の二つの意味のうちの一方のみをできるだけ正確に、長く英訳しつつ、脚注の中でそこに掛詞が用いられていることを簡潔に指摘する」というものであった。

 さらに熊楠は、「簡潔な文章は博学によってのみ生み出される」という中国の諺を紹介しながら、翻訳された文章は読みやすいものであるべきだが、その基となっている関連の知識に関しては十分に押さえておくべきであるという必要性を述べている。そのためには、まず自分が『胡蝶物語』に関する膨大な注釈をともなう下訳を作り、それを英国人の翻訳者が読みやすくまとめていくようなかたちでの、共同作業による翻訳がもっともよい方法ではないかと、熊楠は提案するのである。そしてその際の協力者としての英国人には、F・V・ディキンズが誰よりも適役であること、しかし、ディキンズはすでに引退していることなど考えると、他の可能性としては大英博物館東洋書籍部のロバート・ダグラス、あるいは作家のアーサー・モリソンが挙げられることを、熊楠は伝えている。

 いずれもロンドン時代の熊楠の「盟友」たちであって、帰国後十年近く経ってもまだこうした名前が列挙されていることは多少苦笑させられるところもある。とは言え、日本美術に関心を持ち、解説書を出版していたモリソンなどは、作家としてのこなれた英語を駆使して熊楠とペアで翻訳作業にあたっていれば、案外面白い作品に仕上がっていたかもしれない。

 ともあれ、こうしたやり方で翻訳を進めるにしても、その作業がたいへんな労力を費やすものであることを、書簡の末尾で熊楠は自分の性格とからめながら再度強調している。

 おそらくディキンズ氏からお聞き及びのことかと思いますが、私はどんな仕事でもぞんざいでおざなりなやり方で片づけたりはできない性分なのです。仏教倫理において称揚されている言葉に「獅子は兎を襲う際にも全力をもってする」というものがありますが、それと同じように私は何事も自分の全精力を傾けて徹底的にやらなければ気が済まないのです。それで、我が家の女中などは私がたった一つの必要な証拠を求めて一晩中本の山の中を跳び回ったり、正確な引用文を確認するために二・三マイルの距離を急ぐのを見ることもよくあるくらいです。私がこのように熱心すぎるくらいに仕事をするのは、植物学採集の場合にも通じる教訓なのですが、そこそこの出来で満足しているような仕事では、決して長い名声を得ることができないと考えているからなのです。ですから、この翻訳の仕事をやり遂げるために、私は引用書や参考書を七十マイル離れた私の別書庫から危険な海路で取りに行き、余暇を費やして幅広く真剣に英語を読んで語彙や言い回しを磨き、注釈のための事項や文献資料を一生懸命探索し、小説中に含まれた日本語、中国語、梵語の意味を明確に伝えるためにありったけの能力を消費し、読者だけではなく英国人の翻訳者にわかりやすく正確に素材を提供するためのおもしろくてかつためになるような翻訳を作成しなければならないわけです。

 しかし、熊楠が本当にこの困難な仕事をディキンズへの義理立てのためだけにやろうとしていたかどうかは疑問である。これだけの長い手紙を一ヶ月かけて書いている熊楠は、やはりこの翻訳に自ら関心を持ち、金銭的にもなるべくよい条件で引き受けることを期待していたととるべきではないだろうか。

五 熊楠の提示した条件とゴワンズの回答

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 そして、手紙の最後の部分で、熊楠はようやく翻訳に際しての具体的な条件、つまりゴワンズの手紙の直接の返答部分を書き記している。

 こうした条件をすべて考慮に入れ、私としては貴社のご要望に対して、次のような返答をさせていただきたいと存じます。作業を完成するためには、私は八ヶ月間これに専念しなければならないものと思われます。そして、この仕事に対して貴社は私に一二〇ポンドを次の方法で支払っていただきたい。まず、三〇ポンドを前金としてお送りいただくこと。そうでないと、私の家族はみな、私がまったく理不尽でリスクの多い仕事にかかわってしまったと思って、一致して反対し始めるにちがいありません。そうなれば、十分な用意をすることができなくなってしまうのです。

 下書きの文章はここで切れているが、実際にゴワンズ社に送られた「決定稿」では、この部分はもう少し丁寧に仕上げられていたかもしれない。しかし、ともかく熊楠側の条件はこの文章からはっきりと読みとれる。

 ちなみに、一二〇ポンドという額は八ヶ月という期間拘束されることから割り出されたものであろうが、ロンドン時代(一八九二〜一九〇〇年)の熊楠の一年間の支出よりも少し多い程度である。つまり、現在の日本の物価に当てはめれば、独身者が何とか生活できる年収、つまり二百万円弱といったところであろうか。しかし、ロンドンよりは圧倒的に物価の安かった当時の日本では、感覚として少なくとも五百万円以上には換算されたであろう(11) 。熊楠が田辺で一年間の家計を支えるには十分な額である。

 熊楠のさまざまな思惑が交錯しているこの提示だが、これに対するゴワンズ側の返書は非常に明快なものであった。

 貴下がご呈示された額(一三〇ポンド(12) )以下でこの仕事を請け負うことが不可能な情況にあることはきわめて明確に理解いたしました。そして、たいへん残念なことではございますが、私どもといたしましては、目下のところ、それだけの額をお支払いすることができないと言わざるを得ないのです。おそらく、将来的には可能になるものと思われます。

 四月三十日付のこの手紙(資料3)を、熊楠は六月十一日に受け取ったことが日記に見えるが、これについてのコメントは何もない。この後、熊楠の日記などにはゴワンズに関する記述はなく、特に翻訳料を下げて交渉するといったやりとりはなかったようである。

 この書簡には、続けてアダム・ゴワンズ自身が日本語に関心を持っていて、『珍説弓張月』や『来迎阿舎利』、『南柯夢』といった馬琴の作品を自分自身で読んだという興味深い記述が見られる。一見するとちょっと驚くような内容だが、これが実は法螺でも誇張でもないことは、一九三〇年にAdam L. Gowansの訳者名で馬琴の『青砥藤綱模稜案』他が刊行されていることからも明らかである(13) 。そうした意味では、熊楠がこの返信に心血を注いだことは決して無駄だったわけではなく、これを "the most interesting letter we have ever received" と評したA・Gの言葉は実際に感銘を受けたのであろうということが想像されるのである。

 さて、この一九〇九年に、熊楠は海外から立て続けに仕事の依頼を受けている。二月のゴワンズの馬琴翻訳に続いて、四月にはオランダ大使館のデ・フィセル(14) から連絡を受け、創刊予定の『フラヘン・エン・メッデデーリンヘン』誌への寄稿を頼まれている。また九月四日の日記には「ワシントンの農務省スウヰングル状受。予に翻訳の事を托し又都合により渡米を求る也」とあって、一九〇六年より熊楠に連絡をしてきていたW・スウィングルから、再度翻訳の依頼と渡米の打診を受けていたことがわかる。

 二十代後半のロンドン時代以来、雑誌投稿や文通のかたちで学問活動を繰り広げてきた熊楠にとって、この四十二歳の一年は、ようやく名声を確立して収穫期に入ってきた、というところであったと言えるだろう。しかも、この時熊楠に声をかけてきたアダム・ゴワンズ、デ・フィセル、スウィングルは、いずれもまったくちがう専門でありながら、それぞれ学問領域に一家言のある人物たちであり、熊楠の学問の幅の広さと海外での評価を代表するといってよい面々であった。ここにいたって熊楠は、修業中という側面の濃かったロンドン時代とはまたちがい、壮年期のすでに認められた一学者として、学問的活動の舞台を英国・オランダ・米国といった場所に開いていく可能性を持っていたのである。

 だが、まさにこの一九〇九年の中頃から、熊楠の運命は急転することになる。スウィングルからの手紙を受け取った三週間後の九月二十七日、熊楠は大浜台場公園の売却問題について、『牟婁新報』に反対の論陣を張り、いわゆる神社合祀反対運動を開始した。そして、これに続いて、同誌に次々に合祀派批判の文章を発表し、翌年夏には教育委員会夏期講習に乱入し、拘引・留置されるという事態にいたることになる。結局、馬琴の『胡蝶物語』翻訳に費やされたかもしれないこの一九〇九年後半の八ヶ月は、熊楠にとって後半生の疾風怒濤の開始の時期となったのであった。

 この年の十一月二日、熊楠は公園売却の反対演説に立ち、「ほれてつまらぬ他国の人に、末は烏の泣き別れ」という都々逸を披露している。この言葉は、直接にはスウィングルからの招聘を念頭に置いたものだったのだろう。しかし、それとともに、その米国行きに代表されるような、さまざまな分野での海外での学問活動を本格的に再開する夢と、目の前で急速に行われつつある合祀への憤りの間で揺れる心をあらわしたものでも、あったのではないだろうか。

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 注

(1) 牧田健史「熊楠‥ロンドン近況短報三題」(『ミナカタ通信』第二十号)

(2) 牧田健史「ディキンズ和・漢書コレクションの整理と目録作り」(『ミナカタ通信』第十三号)

(3) 南方熊楠資料研究会の邸内書庫調査によって、すでに簡単な海外来簡のリストは完成している。

(4) ゴワンズはこれ以前にも日本の古典文学の翻訳を出したことがあり、実は馬琴作品も一冊出版している。 A Captive of Love. A romance. From the original Japanese of Kyokutei Bakin by E. Greey., Gowans & Gray, 1886

(5) 原文では 8 years の 8 の後が空欄になっていて、熊楠が後で正確な没年を調べて書き込もうとしていたことが窺われる。

(6) 松居竜五『ロンドン抜書考』二、『熊楠研究』第二号、二〇〇〇年、七六〜七七頁

(7) 『南方熊楠全集』第七巻、一〇二頁

(8) 『南方熊楠全集』第七巻、一〇四頁

(9) 実は『胡蝶物語』は、これ以前に英語に抄訳されたものがあるのだが、熊楠は気づいていないようである。abridged tr. by L. Mordwin as "Glimpses of dreamland," Chrysanthemum II, 1881-2.

(10) 『柳田國男南方熊楠往復書簡』(平凡社、一九八五年)一八八頁

(11) 熊楠は、滞在当時のロンドンの物価について、日本の四倍と計算しているようである。これを単純にあてはめると、ロンドンでの生活感覚としての二百万円は日本での八百万円となる。武内善信「若き熊楠再考」(長谷川・武内校訂『南方熊楠 珍事評論』、平凡社、一九九五年)二七四頁参照。

(12) 下書きの一二〇ポンドと額がちがうのは、おそらく熊楠が推敲の末、一〇ポンド上乗せしたということであろう。

(13) Two Wives Exchange Spirits, and other tales. Translated from the original Japanese. by Adam L. Gowans. GOWANS. Adam Luke 1930

(14) この書簡の送り主について熊楠は Dr. Nisser と転記しているが、原本の封筒にはおそらく自身の手でカタカナで「ドクトル・デ・フイスセル」と書かれているので、Dr. De Visser が正しいと思われる。ここではフィセルとしておいた。


熊楠書簡草稿及びゴワンズ社返信[別掲]


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