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 南方文枝さんを偲ぶ

松居竜五     

 十年前にはじめて南方邸を訪れてから、文枝さんには折りに触れて昔の話を伺ってきた。一人で訪れて世間話的にお聞きしたり、調査の機会にみなで車座になって次々に質問したり…。そのどれもが楽しい思い出で、文枝さんが亡くなられた今も、田辺に行きさえすればそのようなことが可能だ、という錯覚からなかなか逃れることができない。

 そうした文枝さんのお話の中でも、特に印象深いものの一つが、今回『熊楠研究』に掲載することなった一九九三年のインタビューである。もともとNHKの衛星放送のための企画としてプロデューサーの諏訪敦彦さんが組んだもので、私も途中から話に加わるように頼まれた。ちょうど小春日和のうららかな午後、南方邸の書斎の縁側に腰掛けた文枝さんがリラックスして話せるようにというのが、諏訪さんの演出だった。

 こうして始まったインタビューでは、全体のペースを諏訪さんが作り、それに真摯に応える文枝さん、そして私が時々合いの手を入れるというかたちで、三人の呼吸が不思議なくらいうまくかみ合った。文枝さんご自身の少女時代から、父としての熊楠、母松枝さん、兄熊弥さん、そして近所の人たちのようすが、生き生きと語られていく。

 とりわけ、父の最晩年から死を迎える時期のお話は、まるで熊楠本人が乗り移ったような迫力であった。ふだん穏和で冷静な文枝さんの声が、この時ばかりは起伏のある躍動感をもって心に響いた。『今昔物語』を渡されたこと、天井に紫の花が咲いていると語ったこと、白い鳥が縁の下に死んでいると予言したこと…。

 文枝さん自身がすでに「終焉回想」と題した有名な文章で鮮やかに書き記した熊楠の最期の場面を、ひとつひとつ確かめるように、諏訪さんと私は聞いていた。ところが、熊楠が絶命する直前に発した言葉に差し掛かったときに、私ははっとした。熊楠最期の言葉を語っていた文枝さんは、「また夜中に『文枝、文枝』…」と言いかけて、しばらく沈黙して考えるようなそぶりがあった後、「『熊弥、熊弥か』、『野口、野口』って大きな声で叫んだんです」と続けられたのである。

 熊楠の伝記などでは必ず語られるこの場面は、「熊弥、熊弥」、「野口、野口」と叫んだことになっていて、死ぬまで不遇であった息子とその後見人に思いを馳せる父親としてのイメージをつよく残すところである。だが、考えみればこの言葉の根拠になっているのは、文枝さんの「終焉回想」であり、それ以外の資料はない。今、文枝さんがはっきりと違う言葉を口にした以上、どちらが本当なのかはわからいなのではないか。インタビューを終えてからも、私にはそのことが気にかかっていた。

 そうした疑問は、意外にもその次の春に行った調査の際に一つの答えを得ることにつながった。この時、たまたま熊楠の資料の中から、私たちは文枝さんのお若い頃の日記を見出した。もちろん、文枝さんご本人にお返しすべき資料であるが、その前にどうしても気になって、一九四一年の熊楠の死の場面の部分だけ、ちらりと目を通すことにした。すると、そこには熊楠の最期の言葉として「文枝、文枝」、「野口、野口」とはっきりと書き記されていたのである。この事実を数人で確かめた後、日記はすぐに文枝さんの手に戻された。文枝さん自身が何十年も見たことがないというこの日記の発見には、たいへん喜ばれていた。

 この部分の記述は、熊楠の言葉を聞いたその当日に記されているのだから、真実に一番近い姿を伝えていると考えて間違いはないだろう。つまり文枝さんは、父が最後に自分の名前を呼んだにもかかわらず、それを回想録の中で、兄の名としていたのであった。父の最期の言葉が歴史に刻まれることを熟知して、そこに自分の名ではなく、不遇だった兄の名を残したいと思われたのであろう。そこには文枝さんの、家族に対する優しい心遣いがあった。もちろん、「野口」は熊弥の後見人としての呼びかけだったのだから、実質的には熊楠の最期は、文枝と熊弥の二人の子どもに向けられたものと考えてよいだろう。

 もしかしたら、こうして我々だけが知り得た事実を公表することは、文枝さんの本意に反することなのかもしれない。しかし、と私は考える。たしかに、文枝さんは熊楠の資料を受け継ぎ、これが将来、学問的な目的に活用されることを願っておられた。そのために、長年その保管にあたられ、学術調査への最大限の協力を惜しまれなかった。だが、そのことは同時に文枝さんにとっては、父熊楠はもちろん、母の松枝さん、兄の熊弥さん、夫の清造氏といった人たちの思いを伝えていくという、祈りに近い願いの込められた作業でもあったのではないか。

文枝さんなしには、現在の、そして将来の南方熊楠研究というものがあり得なかったことは、誰もが認めることである。南方の家を守り、求めに応じて熊楠について語りつつ、資料を守るというその数十年に及ぶ営みは、けっして平坦な道のりではなく、過去から将来を見通した信念によってこそ成し遂げられたことであった。文枝さんが亡くなられた今、その文枝さんの努力を思い返すために、やはりどうしてもこの逸話を残さなければならないと感じ、ここに紹介させていただいたゆえんである。

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