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《ミナカタ通信15号より》

 熊楠:ロンドン近況短報三題
   ロンドン・ツアーへようこそ

牧田健史     

大英博物館、円形大閲覧室が修復、一般公開へ

 大英博物館図書館の円形大閲覧室といえば、熊楠のロンドン活動、とりわけ自学自習の中心の場所となったところとして、既によく知られているところだが、この閲覧室が、この程、館中央部の大改築で修復され、新たに博物館閲覧室として 館史上、初めて一般訪問客に公開されることになった。

 大英博物館は、既に1970年代に博物館から分離、独立機構となっていた英国図書館が、1997年末に新館への移転を完了した後、円形閲覧室を中心に図書館が占めていた館中央部の改築工事を進めていた。昨年暮れにほぼ3年がかりで工事が完了し、新たに、修復閲覧室を中心に周辺一帯を、教育活動及びインフォメーション・サービスの場として、ザ・グレート・コートを公開した。

 新装のザ・グレート・コートは閲覧室の建物を中心に、もと書庫だった周辺部分を大回廊風に改築した奥行き100メートルに近い広大なスペースで、回廊部分も、閲覧室ドーム建築同様、自然採光のアイディアを取り入れた、ガラス張り高天井を回らした、規模壮大なものである。

 一帯は、当然、新たに博物館独自の利用目的に沿って、大幅に改善されることになっていたので、閲覧室自体も、建物そのものは残ったとしても、恐らく図書館時代の面影は残っていないのではないかという想像に反して、内部は、ほとんどそのままの形で、修復、装飾され新たに博物館の閲覧室として復元されている。室内の設備も、閲覧用の机、椅子などはそのまま残っており、とっくに廃物になっている、つけペン時代のペン置きやペン拭ブラシまでもそのまま各席に残されているといった具合で、ほとんど昔のままである。ちなみに、熊楠が、この閲覧室で筆写した「ロンドン抜書」はペンで書かれている。 また室内の壁を埋める円周書架には新たに博物館所蔵の書籍が並べられ、中央の円列カウンターには、これも、博物館図書館時代からの総合カタログ、2千数百冊がそのまま残されていおり、従前の雰囲気を十分に留めている。天窓、穹窿のドーム内装もオリジナル基調のリデコレーションというから、全体に建設当初に近い、いわゆるヴィクトリア時代の閲覧室の復元と言ってもいいであろう。

 ところで、この閲覧室の建物は、当時の館長アントニー・パニツィの原案、シドニー・スマークの設計で、1857年に完成されたものだが、建築物としても、ドーム造りとしては、英国最大の規模で、爾来、ヴィクトリア時代の名建築物とされてきた。ちなみに、ドーム自体はローマのパルテノンのそれより、直径がわずかに6mほど小さいだけというから、大体のご察しはつこう。ところが、この大ドームの建物は構内中央部にすっぽりと隠れてしまって、外部からはほとんど見えず、ただ、閲覧室利用学者だけに知られた存在として、また、数多くのエピソードを秘める、いわゆる、ロンドンの‘隠れた名所’とされてきた。 この度の一般公開で、今度はロンドンの‘開かれた名所’になりつつあるようである。

ケンジントン下宿の現家主が逝去−ロンドン‘熊楠の家’の将来が懸念

 熊楠が二番目に住み、ロンドンの主要下宿となったケンジントン (15 Blithfield Street)の家の現持ち主だった、ピネル氏 (David Pinnell) が、1月14日ガンのため死去した。79歳。

 熊楠は1893年5月にこの下宿に移り、その後ほぼ4年8ヶ月住んだところだが、当初は、まだ大英博物館との関わりはなく、むしろ自然史博物館睨みで同館に近い、この下宿を選んだと思われる。 かつて‘厩の二階’とか‘馬小屋の二階’と誤解されて知られてきた、この下宿が、彼の読書、執筆の場として、また、大英博物館との関わりが出来た後当分は、博物館のフランクスすやリードから依頼された仏教関係などの自宅調査の場として、さらに後には博物館閲覧室へ通った住いとして、彼のロンドン滞在中最も充実した時期を過ごした所だった。 一方、孫文やサッケン男爵をはじめ友人,知人との交際の場としてのエピソードも多いところである。

 ピネル夫妻は1964年にこの3階建てテラスト・ハウス(棟続き家屋)を購入し、その後部分的改築、改装を加えて現在は内外共に立派な住宅になっていて、熊楠言うところの、当時の‘むさくるしさ’からはほど遠いものだが、基本的、建物自体は昔のままだという。 近年、ロンドン訪問の熊楠研究家でこの下宿家屋を直接訪ねた人も幾人かあり、ピネル夫妻との直接面識もあり、研究界との関係も強まってきたが、特に、一昨年ロンドン訪問の小笠原謙三氏の尽力で、熊楠の写真を邸内に付設、老夫妻も‘ロンドン熊楠の家’と自称すほどに、親密さを増していた。(『熊楠ワークス』2000.2.25「南方熊楠の下宿跡に住むピネル夫妻を訪ねて」小笠原謙三)を参照。

 ピネル氏亡き後独り住いの身となった夫人は、子どもたちの家族を訪れたり、旅や趣味の絵に時間を費やすことで、どうやら苦境を凌いで、徐々に元気を回復している様子で、前回、3月に訪ねた時は、特に、夫人自身の工夫で、居間の暖炉脇に、肱掛椅子を誂えて‘熊楠の椅子’だと言って顔をほころばす程に立ち直っていた。 ただ、夫人も既に80歳に近い高齢なので、この後いつまでこの家屋を維持、居住できるかが心配されるところで、当地の家屋譲渡の慣例からすれば、いずれこの家屋は売却されことになるだろう。持ち主が代わることによって、長年続いてきた関係は、ひとまず白紙状態となるだろうし、‘ロンドン熊楠の家’の将来が懸念されるところで、今のうちになんとか手段てはないものかと思うことしきりである。

ディキンズの孫がロンドンに健在

 熊楠が、ロンドン滞在中は直接、帰国後は文通で交際を保ったディキンズ (Frederick Victor Dickins, 1838-1915)の日本関係作品集のリプリント (Collected Works of F.V. Dickins; 7 vols) が、2年ほど前に出版されたが、その出版編集者から、ディキンズの孫息子がロンドンに健在であることを知り、この程その自宅を訪ねた。

 ロンドン北西地区のゴールダーズ・グリーン住むダグラス・ディキンズ (Douglas Dickins) がその人で、既に93歳の高齢だが、今なお、フォトジャーナリストとして活動している。 十数年前に夫人が亡くなり、現在独り住まいだが、難聴のほかは特に身体に問題なく、身辺の世話も自分でするという元気さで、毎日読書、執筆も欠かさないという。 書斎兼フォト・ライブラリーには、自己撮影の写真フィルムおよび資料がびっしり並べられ、祖父ディキンズが日本から持ち帰った書物、飾り物の類も保存されていた。その蔵書の中から『竹取物語』『忠臣蔵』、『飛騨の匠』『百人一首』など数冊を見せてもらったが、いずれもディキンズ(F.V.)が英訳している作品で、随所に自筆記入があり、恐らく翻訳に直接使ったものではないかと思われるものだった。

 ディキンズ(F.V.)はロンドン大学の事務局長の職を退いた後、ウィルトシャー (Wiltshire)の田舎に引退、余生を送ったということだが、今回、ダグラス氏も言っているように、手紙などの個人的な文書類一切は、遺言によって焼却されたようで、友人関係などの調べが難しい実情である。従って、数多く出されている熊楠からの書簡なども、残念ながら、これまでの調べでは皆無だし、存在の可能性も危ぶまれるところである。

 ダグラス氏の説明では、ディキンズ(F.V.) には2男2女の4人の子どもがあり、ダグラス氏はその次男、フレデリック・ディキンズ(Frederick Dickins) の長男として、1907年に生また; 父親のフレデリックは英軍インド駐屯准将で、母親がダグラス出産のため、一時帰英、ウィルトシャー・シーンヅ(Seends,Whiltshire)の 母方の家で出産、母子共に再びインドへ戻り、幼児期を過ごした後、ダグラス氏が教育年齢に達した時期にイギリスへ帰って修学、17歳で銀行に入り、定年退職まで42年間勤めた; 銀行在職中から、写真とジャーナリズムの世界に興味を抱き、余暇に勉強を続けて、退職と同時にその道に入り、現在も続けている;といった、おおざっぱな家系と経歴だった。

 祖父ディキンズとの関係だが、ダグラス氏が直接接触する機会があったのは、前述のように、出世後のしばらくと、教育のため帰国した後の期間だが、記憶に残っているのは後者の時期の、しかもディキンズ(F.V.)が亡くなるまでの、ほんの2年ほどだったという。祖父夫妻も、ウィルトシャー、シーンヅに住んでいて、ダグラス氏が住んでいた母方の家とは目と鼻の先だったということだが、あまり親しい行き来はなかったらしく、時に訪ねても、祖父ディキンズは、いつも書斎にいて読書や書物をしており、近寄りがたい、老人学者の印象が強かったということである。

 6歳ぐらいの時の忘れがたい記憶として話してくれたのは、母親と、老夫妻の家に食事に呼ばれた時の出来事で、いかにも威厳のある老学者のダイニング・ルームの食卓で、ダグラス氏が水のはいったコップをひっくり返してしまい、祖父ディキンズからひどく叱られ、非常に怖い思いをしたということだが、いきなり立ち上がった祖父が地だんだ踏んで怒鳴るといった気性の激しさで、母親が泣いて謝った程だったと言う。 話が熊楠との関係になり、ダグラス氏自身は、直接には、二人の関係を知らなかったが、前述の作品集中の熊楠に言及した一文 * から、翻訳上の協力関係や熊楠ロンドン滞在中になにかトラブルがあったことは知っていた。さらに筆者の『竹取物語』の英訳をめぐる二人の論争などの説明に、祖父も剛直な性格で、頑固なところもあったようだから、お互い衝突もあったのではないか、と笑っていた。

 * この、熊楠に言及した一文というのは、ディキンズの作品集, (Collected Works of F.V. Dickins) 第1巻のコーニッキ氏 (peter F. Kornicki)による序文の中に書かれているもので、『竹取物語』や『方丈記』などの英訳における熊楠の協力につて述べ、さらにディキンズがアーネスト・サトー (Earnest Satow) に宛てた手紙の中で、やはり熊楠の学識を高く評価していることを述べ、また同じ手紙の中で、熊楠を日本へ送り返すのに困ったこと、再びロンドンに戻ってこないことを願っている、といったことなどが述べられているものである。

 なお、ダグラス氏は、幼時期の在住経験、さらに銀行在職中の、第二次世界大戦中に英国空軍の志願兵として2年ほどインドに駐在した経験、それに祖父、父親のアジアとの強い関係などからの影響も相俟って、早くからアジアへの関心は強く、インドをはじめ各地を頻繁に訪れている。日本へも、すでに4度ほど旅行しており、この程、自己撮影の写真と随想を集めた作品集を『祖父の足跡を訪ねて』(In Grandpa's Footsteps: The Books Guild Ltd. 2000;folio, pp176;)として刊行した。

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