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《ミナカタ通信13号 (1998. 7.15) より》

 ディキンズ和・漢書コレクションの整理と目録作り

牧田健史     

 Frederick Victor Dickins (1838-1915): 熊楠のロンドン滞在中、最も深い個人的交わりを結び、帰国後も引き続き親交のあった、時の著名なジャパノロジストとして既に大方ご存知であろう。実は、ほぼ一年前になるが、ある機縁でブリストル大学の図書館に保管されていた、ディキンズの和・漢蔵書の整理と目録作りを手掛けた。同コレクションは図書館で利用されることがなく、そのまま大学の倉庫に保管されていたようで、このほど売却処分されることになり、既にブリストル市内の古書屋に一括して引き渡された。

 ひとまず現物の下見に、ロンドンから115マイルほど西のブリストルへ出かけた。古書店のオフィスの棚の片隅に積まれたこのコレクションの多くは、たぶん寄贈当時に成されものであろう、作品ごとに結えられたピンクの紐が色褪せて、長年そのまま放ってあったという感じだった。ざっと目を通して、目録作りを承諾をして帰った。

 ところで、このコレクションの寄贈先、つまりディキンズ自身の晩年の関わりが、彼が長年奉職したロンドン大学ではなく、ブリストル大学というところに、一つの疑問がないでもない。その経緯や事情はよく分からないが、ディキンズは1901年にロンドン大学の事務総長職を退いた後、ウィルトシャー (Wiltshire) に移り住み、著作活動を続けると同時にブリストル大学の日本学の講師 (Reader in Japanese)--Who's Who) を勤めたようだ。ようだというのは、大学当局に確認したわけではないからだが、ウィルトシャーの住居はブリストル大学への通勤距離であること、特に本人あるいは夫人方の郷里でもないその土地を選んでいることなどを考え合わせると、ブリストル大学での勤めという要素が大きい。また、関連的にディキンズは同地方のバス(Bath)市にちなむバス勲位 (Companion of Bath) の受爵者(熊楠の日記−1903年5月27日)で土地の名士となってもいた。

 ちなみに、ブリストルは熊楠が、1898年9月に英国科学奨励会人類学部会に招待を受けたが出席せず論文 (Taboo System in Ancient Japan) を送って、同学会誌に発表された、という由縁がある。

 さて、コレクションの内容だが、ほとんどは江戸初期から後期にかけて出版された和漢書、総数664冊(写本1冊を含む)で、ほぼ下記に分類するようなものである。(この目録は図書館および研究者の利用目的というより、ひとまず販売のためのガイドといった目的によるもので、従って分類、書誌記述も、それに沿ったものである。)

 国書:文学・古代史 (288冊)

 仏書:(71冊)

 漢籍:(中国原典、日本出版)(40冊)

 地誌・辞書類・他 (174冊)

 活版(明治)本:(7冊)

 中国出版本(主に活版本):(84冊)

 コレクション全体を、ごく大ざっぱに見ると、日本学者としてディキンズが翻訳して出版した業績などと照らし合わせて、当然のことながら、文学書が35点150冊ともっとも多い。その内容は、従って、訳出された「竹取物語」「飛騨匠物語」「百人一首一夕話」、「古今和歌集打聴き」(「古代・中世日本語テキスト」中に含まれている)などがあり、その他、「落窪物語」「大和物語」「今昔物語」「伊勢物語「徒然草」「土佐日記」等のバリエーション(注釈書、絵本など)。関連的に、古代史書は「古事記伝」(全45巻、48冊)「続日本紀」(全40巻、20冊)をはじめ「日本開闢由来記」等など。

 次いで多いのは地誌、紀行記(諸名所図会、北越雪譜など)博物・民俗誌的な書(日本山海名物図会、諸国里人伝、民間・年中行事要言など)。 それに、以外に思えたのは―もっとも、文学作品が主な研究対象と思っていた筆者にとってはだが―多巻冊のまとまった仏教関係書、とりわけ仏教界の偉人伝の類(「圓光大師伝」、「親鸞聖人一代記図絵」、「日連上人一代図絵」など)である。

 コレクションとディキンズの日本研究との関係を論ずるには、もちろん彼の翻訳や関連論文の内容を綿密に調査、検討しなければならないが、現物の整理と目録作りを手掛けた段階での、極く大ざっぱな所感を二、三言してみたい。

  まず、ディキンズの日本学のきっかけというか動機についてだが、むしろ自然科学系のバックグラウンドを持つ軍医将校として、日本を訪れて、職務上は特に日本語の必要はなかったという彼が2、3年で日本語、しかも古文までを習得してその翻訳を試みるまでに興味を持ったということである。たぶんロンドン大学のJ.サマーズ(中国学部)あたりの影響および奨励もあっただろうが、やはり彼自身、日本の風土、風物、人民といったものに直に触れて、そのエキゾティシズムに深い印象と興味をもったのではないかと思われる。

  翻訳など研究の対象は確かに文学のカテゴリーのものが主だが、初訳の「百人一首」にしろ、「忠臣蔵」にしろ、あるいは「飛騨匠物語」といったものにしろ、厳密には文学性というより日本人の間に持てはやされていた、いわば“人気作品”といった要素の強いものであり、そういった、日本人の間でもっとも強い関心を集めている著作を通して古来から日本そのもの、及び伝統、習慣的に培われて日本人の心や気質のいわば精神性といった面の探究に駆られたように思われる。従ってコレクション中の国書も多く文学のカテゴリーのもではあっても、見方では上述の目的にそった性格のものが多く、いわば民俗文化の面、強いて言えば、民俗誌あるいは民俗学的な興味も強かったように見える。

  従って、コレクションには文学書と合わせて、地誌、紀行、博物誌、民俗誌関係の書が多く含まれている。もとより、博物学に関しては、植物学を中心にかなり深い造詣があったようで、たとえば、同時期に日本に滞在したサトウー (A M Satow) やパークス (H Parkes) はしばしばディキンズから植物名の教示を受けたと言うことである。一方植物学者伊藤圭介とは知己の間柄で、後に彼の略伝を訳しているほどである。

  さらに、仏教関係書も、従って上述の観点から、日本の文化を理解する上で不可欠のもので、ことに民衆仏教の祖としての法然や親鸞、日連が重点的に集められているということも、ひとまず諾けるようである。

  さて、コレクションの諸書にはディキンズ自身の書き込み見られ、特に、「竹取物語」など翻訳の底本となったものには、ページーページに語句の意味や解釈が書き込まれており、かれの翻訳を研究する上には重要な素材であろう。

  ところで、この「竹取物語」だが、天保刊の同版が2冊あり、翻訳の底本として使ったと思われる方は書き込みも多く、表紙も下巻の裏表紙以外は欠損、手ずれの傷みも大きく、ディキンズがいかに頻繁に用いたかが窺い知れる。ちなみに、この訳本だが、一読した熊楠が批評文を示して両者が激論したいわくがある。そこで、あるいは、なんらかの新たなマークがその箇所にありはしないかとの好奇心から調べてみたが、特には見いだせなかった。

  なお、このコレクションには、ディキンズが翻訳出版した、「万葉集」や「方丈記」といった書が含まれていないことから、さらに蔵書の幾分かは別途処分されたと考えられる。ブリストル大学へは生前に寄贈されたともの思われるから、一部は彼が最後まで所蔵していたのかも知れない。推測にすぎないが、彼の死の直後、未亡人からサトーに日本関係の遺品の処理について相談した手紙が、国立公文書館の「サトー・ファイル」の中にあるが、そういった、残りの蔵書を含めたものを意味したのかも知れない。実は、その中には、あるいは熊楠からの書簡の類も含まれていたかも知れないと思って多少追跡調査を試みたが、残念ながらこれまでのところまだ手がかりはついていない。

 最後に、調査の当初よりコレクションの中に、熊楠からの寄贈書と翻訳の協力関係などのなんらかの参考文献がありはしないかという期待があった。文献類の期待は外れたが、熊楠の蔵書からと明らかに判断されたものは以下4点あった:

 「註維摩經」10巻5冊 明治14、永田文昌堂、手書き署名

 「諸国里人談」5巻5冊 寛政12、須原屋茂兵衛板 >印記

 「昔語質屋庫」(曲亭馬琴)明治16年刊、2巻2冊 印記

 「夢想兵衛胡蝶物語」曲亭馬琴、文化7、手書き署名

 なお、熊楠が日本から送った「和漢三図会」や「狂言集」「大日本時代史」と言った書も見あたらないから、別途として処分されたものの中に含まれていたのだろう。

  実は、この目録作りの仕事は、ブリストルまで再び出かけて、当の古書店でしなければならないだろうと思っていたところ、後日、全コレクションが自宅に輸送されて来た。中には慶長版の貴重本もあれば写本も交じっており、この完全信用にむしろ驚いたものだが、早速、自宅のサンルームの卓球台の上に並べて、整理分類に当たると同時に当分朝夕眺め、ディキンズが自分の書斎で手に取って眺め暮らしたであろうことに思いを馳せ、それに、わずかとは言え、熊楠所蔵のものもありで、いわば二人の形見を前に、なんだか100年前の熊楠とディキンズのあれこれが身近になったような感じで、当時を想像して楽しみもした。

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