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《ミナカタ通信11号 (1998. 3.15) より》

 南方熊楠の大英博物館への寄贈書

牧田健史     

 一昨年から昨年にかけて英国図書館・東洋部で日本古書の一部マイクロフィルム化のための準備の仕事をした。このため同館所蔵の江戸時代末までに出版された和・漢書の現物を調べる必要があり、個人的に熊楠の大英博物館図書館への寄贈書の具合いをも合わせ見ることを試みた。

 英国図書館は元の大英博物館図書館を中核に、新たに国の中央図書館として1973年に発足した。機構分離に伴って、所在そのものも大英博物館から徐々に移転、今年中には、総合新館へ全て移り終ることになっている。ちなみに熊楠ゆかりの円形閲覧室は昨年11月で終閉、図書類は新館へ移転新閲覧室として再開した。

 熊楠の寄贈書については、従って今回は副次的な調べで、この企画のために手に取って調べた書物について、それに熊楠の日記から、彼が所蔵していた和・漢書について同図書館の該当名の書に、熊楠の蔵書印や自筆書き入れなどがないかを調べたわけだから、それほど綿密な調査とはいえないが、結果的には下記の3冊のみが、熊楠の寄贈として確認された:

1)「闕疑抄」(別題「伊勢物語闕疑抄」)細川幽斎著 1668年出版。5巻5冊、現在洋装1冊本。
   第1巻第1ページ、内題の下部余白に〈南方熊楠 明治拾九年六月二十一日購〉の熊楠の自筆墨書書き入れがある。
2)「新著聞集」(1749年出版)元18巻、現在洋装1冊本。
   巻首上欄に熊楠自筆墨書書き入れ〈明治二十九年七月八日大英博物館ニ寄贈 南方熊楠〉がある。
3)「水族写真−鯛部」 (1857年版)1巻1冊 現在洋装1冊。
   序のページ冒頭余白に明治拾八年四月一日購収入の自筆墨書および〈南方熊楠蔵書之印章〉の朱印、それに第1ページ、内題、著者名部分の下に同じく〈南方熊楠蔵書之印章〉の朱印が押されている。序末に熊楠自筆墨書の識語がある。

備考

 1)の「闕疑抄」は、まず日記、1886.2.1 に〈闕疑抄二冊かふ〉が見られ、在米時代の日記1889.11.9には他の12点の書名とともに記されている。これらの書物は翌年1、2月にかけて常楠から送られてきているから、実家から取り寄せ書物のリスト・アップと分かる。「闕疑抄」そのものが送られてきた記録は見い出せないが、同年3月10日の日記に記されている、実家に依頼してまだ届かない書物のリスト・アップ中にこの書名がないところからすると、すでに熊楠の手元に届いていたと言える。それ以来保有、ロンドンに持ち運んだものだろう。

 2)の「新著聞集」は「明治十九年東京南方熊楠蔵書目録」には記録が見当たらないが、日記 1890.3.10 に日本から取り寄せ依頼中の書物の1冊に「古今著聞集」とあって日記1890.4.28に入手の記録がある。たぶんこれではないかと思われる。大英博物館へ寄贈の明治29年(1896)は日記の欠損部分で確認不可だが、前年つまり1895年に東洋部部長のダグラスに知遇、その後しばしば接触しているから、あるいは彼を通した形での寄贈だったかも知れない。

 3)の「水族写真−鯛部」日記にはこの書のことは見当たらないが、「明治十九年東京南方熊楠蔵書目録」No.59/60として記録があり、同書に自筆記入の購入日が蔵書目録のそれと一致している。なお、大英博物館収納日付が1894年2月13日となっており、熊楠がフランクスとリードの知遇を得て、大英博物館に出入りし初めたての頃で、熊楠は仏教関係の収蔵品の整理で助力、自らも仏具などを寄贈、またリードから同氏の著書を贈られたりしているから、あるいはリードに進呈したものだったかも知れない。

調査後感

 熊楠にとって蔵書は、いわゆる独学の大切な勉強道具、特にアメリカで、そしてイギリスへ渡って大英博物館へ通うようになるまでは下宿での読書頼りの勉強であったし、またそうでなかったにしろ、いずれ書物に対する執着はことのほか強かったようだから、蔵書を手放すことにはかなり強い抵抗を感じただろう。従って大英博物館への寄贈も、一つには、接触の相手にも依っただろうが、物品の方がはるかに多い。(もっとも、筆者のこれまでの調べに基づいての結論だが)大英博物館資料室の「寄贈簿」には熊楠の仏具などの寄贈品約20点が記録されている。

 ところで、大英博物館での騒乱事件の陳情書の中で、熊楠は当時遂行の研究のため、自分の蔵書を日本から全部取り寄せた、と言っている。その中の一部は既に大英博物館に寄贈、残りもそうするつもりだとも言っている。しかし、同陳情書の後の方で、自分は坊主になって修道院にでも入って一生を終えるより他に仕方のない人間だから、大英博物館へ寄贈した仏教関係の諸品は、その修道生活に必要と思うから返して欲しい、その代わり自分の蔵書500冊ばかりは全部大英博物館へ寄贈してもいいとも言っている。その後それが実行された記録は大英博物館側の資料にも、熊楠自身の日記他にも無いし、図書館の蔵書中にもそれだけ大量の寄贈はありようがない。従って、他にディキンズや自然史博物館のバザー、あるいは南ケンジントン美術館(現在ヴィクトリア&アルバート博物館)のストレンジなどへ贈ってはいるが、結局、ロンドン時代の蔵書の大方は日本へ持ち帰ったのではないかと思うが、どうであろうか。

 なお、この蔵書約500冊という数だが、日記では1894年8月に和・漢書281冊、他77、合計358冊;1895年3月の集計では合計378冊の記録が見られ、その後追加したものを加えるとロンドン滞在末期の当時ほぼこのぐらいの数ではなかったかと思う。

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