《ミナカタ通信6号 (1996.11.29) より》
金山正子
最初に田辺の南方邸を訪れたのは3年前の7月だった。その時、史料の保存状態を見せていただき、いくつか劣化状態のサンプル調査をして、数日後に保護作業等を含めての報告書を提出した。その時のメモと現在進行中の調査状況を見返してみると、かなり着実に調査と保護措置が実施されていると思う。今回は、通信への原稿をということで、調査に参加されている皆さんには今更という感もあったが、熊楠関係史料の保存的視点からみた特徴と史料の劣化と保存ということについて簡単に述べさせていただきたい。
和紙にくらべて洋紙は劣化しやすい、というのはよく言われていることだが、一概に洋紙が劣化しやすいわけではなく、1800年代前半以前の洋紙は丈夫で長持ちであったりする。1450年にドイツのグーテンベルクが印刷機を発明して活版印刷の技術が完成されてから、大量に印刷することを目的として紙の需要も増大した。そして紙の大量機械生産の技術も開発されていく。もともと手漉きの洋紙の原料には麻や木綿のボロが使われていたが、そのボロに代わって木材パルプ(砕木パルプ)を原料とする技術が開発されたのが1800年中頃である。この木材パルプヘの原料の移行によって、印刷インクのにじみ止め(サイズ剤)も、それまでのゼラチンに代わって松脂(ロジン)から作られるロジンサイズが使われるようになる。このロジンサイズの定着剤として添加されるのが硫酸バンドという酸性のアルミニウム化合物の薬品で、この硫酸バンドが紙の劣化に大きく影響している。酸性紙の劣化は、この紙の中に残存している硫酸バンドや空気中の酸性物質のために、紙の繊縫を構成するセルロースとヘミセルロースの酸加水分解や脱水作用によって繊維が脆弱化するためと言われているが、その劣化構造は化学的にはまだ解明されていない。しかし、酸性度の強い紙は中性の紙よりも同一環境下における劣化進行の速度が早いことは証明されており、いかにして酸化による劣化から紙を守るかが紙史料の保存の視点とも言えるだろう。また、木材パルプにはリグニンといわれる木に含まれる物質がそのまま混入しており、このリグニンは光による紙の変色の大きな原因で、ザラ紙や新聞紙が光にあたるとすぐに茶色く変色していくのはこのリグニンの悪戯である。木材パルプの製造法は改良を加えられ、19世紀末には、木の構成物質から化学的に不純物を取り除いた化学パルプが開発されていく。
日本での洋紙の歴史にすこし触れておくと、国内で木綿屑を利用して洋紙の製造が開始されたのは明治8年(1975)、さらに国産の木材パルプの製造が開始されたのは明治22年(1889)である。つまり、明治初期に国内に流通していた洋紙は、国産の木綿原料の洋紙か輸入の洋紙ということになり、比較的良質のものが流通していたと言える。また、日本人の和紙文化から洋紙文化への移行のバロメーターの一つとしては、明治34年(1901)には教科書用紙が洋紙に切り替わること、また大正元年(1912)に日本の洋紙の生産量が和紙の生産量を越えることがあげられるだろう。
現在、史料の保管されている蔵内は、外壁をトタン板で補強されており、閉め切った状態では、梅雨時から夏場はかなりの高温多湿な状況になっていると思われる。乾燥した日には日中(午前10時〜午後2時頃まで)は扉を開放するなどの細めな対応が望まれる(日光は差し込まない様に注意する)。また、長期的な保管を現状でおこなうならば、まず現状の温湿度などを測定して記録し、除湿などの措置を講じる必要がある。たとえば、湿度55〜60%に設定して屋外排出の除湿機を稼働させ、長期的には壁の補強工事などを施して、内部の温湿度がなるだけ一定に保たれるようにする。また豪雨などの節の雨漏りなども心配の一因で、屋根の補強や排水の措置も必要である。
防虫防菌に関しては、全史料の薫蒸をする場合、燻蒸薬剤や排気などに留意して安全に実施することが大切である。最近では燻蒸ガスの有害性も問題になりつつあり(欧米では使用禁止になっている薬品が日本ではいまだ使用されているらしい)、今後は燻蒸以外の方法、たとえばマイナス低温下で史料の付着している虫の卵まで減殺する方法や(通常の燻蒸は卵までは殺さないので艀化した虫をいったん殺して、さらに半期後にもう一度燻蒸するのが望ましいとされている)、無酸素状態で虫を殺す方法など、人間にとっても安全な方法が検討されてきている。また、燻蒸の前に史料のホコリ除去などのドライクリーニングをしておくことも必要である。
現在の保護作業は、史料の保管条件が整備されるまで、史料の劣化を促進させないための応急的な措置として講じている。洋紙の酸性紙の史料は、空気に触れることじたいが劣化を促進する要因であり、なるべく外気のホコリや湿気、光などから遮断してやることが、まず第一段階の保護措置といえる。洋書類の中性紙カバーや和本類の紙帙、保存箱への収納などがその具体策であるが、これで劣化が止まるわけでも史料の延命が図れるわけでもない。当然のことながら、将来的には一定の調査期間をもうけて史料全体の状態調査を行った上でそれぞれの保存措置、脱酸処置や修復処置等を検討することが必要である。
○蔵の一階で書棚に配架されている文献類は、外見的にはさほど問題がないように見えるが、非常にホコリの付着が多い。ホコリを刷毛や布で除去するドライクリーニングを行う必要がある。革製本のものは定期的に革専用のワックスでトリートメントする。また、本文紙の表面に小さな茶色の斑点が見受けられる。これは foxing (斑点の茶色がキツネ色だから)と言って一種のカビと言われており、高温で湿度の高い環境に保管されていたものに多く見られる。蔵内の湿度管理が必要である。
○「ロンドン抜書」や「課餘随筆」などの熊楠の在米・在英時代に作成された記録類は洋紙(ノート)にインク書きれており、すでに「ロンドン抜書」などはぺ一ジをめくると紙がポロリと割れてしまいそうな状態になっている。またインクの部分がインクの金属成分の酸化によって抜け落ちてしまう状態を「インク焼け」というが、それに近い症状の箇所も見受けられる。このような状態になると、コピー複写などによる負荷は史料の破壊につながりかねない。研究者などへの史料提供のためのマイクロ化が進められているが、それと同時に原史料の保管と保存を検討することが必要である。
酸性紙で劣化しインク焼げしている史料の修復には、ぺ一パースプリット(PS)やリーフキャスティング(LC)といわれている技術がある。PSは、1枚の紙を2枚に剥いで、間に薄い和紙等の中性の保護紙を挟み、もう一度貼り戻す方法である。LCは、史料の欠損部分に紙の繊維を水に溶かして流し込み、プレスして結合させる方法である。これらの技術を複合して適用させるのが、世界的にも最高峰の技術といわれており、ドイツではPSの技術が早くから開発されてきた。残念ながら、国内ではまだPSの技術を史料保存的に安全に実施している修復技術者はいない。
○田辺抜書は和紙に墨書きの史料であるので、保護措置をきちんと行うこと。非常に虫喰いの甚だしい史料が数冊あるが、和紙史料の虫損の修復処置は充分可能である。破片などにならない状態で保管し、専門の修復技術者へ依頼すること。
○草稿類は、束ねて丸められた状態で紐にくくられていたものを、調査段階で広げて中性紙箱に収納している。和紙史料は、比較的状態は良く折れしわなどを丁寧に延ばせばよいが、中には洋紙で硬化したもの、インクの褪色してきているものなどが見られる。箱入れの段階で史料をのばして入れるようにし、傷みの甚だしいものがあればその都度中性紙に挟むなどの保護を行う。新聞の裏面を利用して記載している「腹稿」は、新聞用紙自体が非常に劣化しやすい素材であるとともに、数枚が丸めた状態でおかれている。展示などで使用された数枚は裏打ちがおこなわれている。
酸性紙の史料は、アルカリ性のガスや水溶液で酸性を中和する処理(脱酸)を施すことも可能である。pH値は酸性度を示すもので、pH7が中性で数字が低いほど酸性度が強い。脱酸処置では、アルカリ成分の残留効果(バッファー効果)を期待して弱アルカリ性のpH8程度に処理する。しかし、脱酸処理自体は紙の補強ではないので、紙の脆弱化したものには同時にLCやPS、あるいは裏打ちなどの強化措置をしなければならない。
史料の長期保存を実現していくには計画的な展望が必要である。そのためには史料群全体の状態を把握して、段階的な計画をたてることが必要であり、そのためには全体的な劣化状態調査が必要となってくる。今回は以前にサンプル的に行った22点のデータを紹介しておく。 (1993.8.3測定)
No. | タイトル | 作成 | 史料の外見 | pH値 |
---|---|---|---|---|
1 | ロンドン抜書四 | 1895 | 洋紙インク書き、紙の劣化(硬化)やインク焼け(インク部分の酸化)が見られる | 3.90 |
2 | 田辺抜書二 | 1907 | 和紙墨書き、表紙は厚手の洋紙 | 4,93 |
3 | 課餘随筆(ノート) | 1899 | 洋紙インク書き、縁は茶変色 | 4,45 |
4 | 腹稿 | 大正年間 | 下新聞の裏に墨書き、縁の亀裂、茶変色 | 4,33 |
5 | 草稿類の束のうちの1枚 | 不明 | 洋紙インク書き、紙の硬化、亀裂少々 | 3,80 |
6 | 熊楠日記 | 1914 | 洋紙墨書き、装丁が破損 | 4,08 |
7 | NOTES&QUERIS | 1899 | 洋紙印刷、ブロックでバラ、縁の亀裂 | 3,93 |
8 | NATURE | 1933 | 洋紙印刷、綴じホチキス錆、シミ少々 | 4,20 |
9 | 太陽32巻2号 | 1926 | 洋紙印刷、縁は茶変色、綴じホチキス錆 | 4.56 |
10 | 東京人類学会雑誌278号 | 1909 | 洋紙印刷 | 4.37 |
11 | ドルメン3巻5号 | 1934 | 洋紙印刷、綴じホチキス錆、ホコリ付着 | 4.76 |
12 | 日刊不二新聞 | 1913 | 洋紙印刷、ホコリ付着 | 3.87 |
13 | 大日 269号 | 1943 | 洋紙印刷、ザラ紙 | 4.96 |
14 | 口承文学 第11号 | 1935 | 洋紙ガリ刷、綴じホチキス錆、ホコリ付着5.01 | |
15 | 植物学雑誌 338号 | 1915 | 洋紙印刷 | 4.01 |
16 | La Religieuse | 1926 | 洋紙印刷、縁は茶変色、ホコリ付着 | 4.19 |
17 | OUTLINES OF THE WORLDS | 1874 | 洋紙印刷、ホコリ付着 | 4.39 |
18 | THE CABINET CYCLOPEDlA | 1833 | 洋紙印刷、ホコリ付着、foxing (茶斑点) | 3.95 |
19 | M. DANIEL ABREGE DE LH | 1872 | 洋紙印刷、ホコリ付着、foxing (茶斑点) | 5.21 |
20 | HlSTORIAE NATURALIS XX | 1830 | 洋紙印刷、ホコリ付着、foxing (茶斑点) | 4.19 |
21 | HISTORIAE NATURLlS XX | 1830 | 洋紙印刷、ホコリ付着、foxing (茶斑点) | 4.67 |
22 | THE ENCYCLOPEDlA BRIT | 1911 | 洋紙印刷、ホコリ付着、foxing (茶斑点) | 4.64 |
ここで、ちょっと具体的な保存修復のイメージを持っていただくために、リーフキャスティングとペ一パースプリットの原理を簡単に図示してご紹介しましょう。
実際コンサベーター(修復技術者)達は
いろいろな道具や機械を工夫して
開発しています。
オモシロイヨー!
1) 紙の繊維を溶かした水
2) 細かい目のネットの上に史料をのせる
3) 余分な部分は水が流れ落ちないようにカバーする
4) 水は紙の欠損部分を通って流れ落ちるので、紙繊維はネットの上に残る。つまりは欠損部にはまり込む
[吸引]
5) サクションテーブル(吸引合)などで強制的に吸引するものと、水の水頭差(お風呂で空気をいれて逆さにした桶を引き上げようとすると引っ張られるアレ)を利用するものと2つのタイプがある
[乾燥]
6) この後プレスして乾かすと、欠損部分が埋まった史料に再生される
○ 1枚の紙を2枚に剥いで(コレにはいろいろ準備が必要)…
1) 史料の表と裏に貼り付けた支持紙を引っ張る
2) 史料が均等に2枚に剥がれていく
○ 間に薄手の補強紙(和紙など)を挟み込んで再び貼り戻す
補強紙
3) 貼り戻したあと支持紙を剥がすと補強された史料に再生される
※酸性紙史料はだいたい複合的な劣化症状を顕しているので、脆弱化した史料の場合
脱酸→LC→PS
というのがフルコースでしょうか