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《ミナカタ通信13号 (1998. 7.15) より》

 熊楠と『新著聞集』

千本英史     

 『ミナカタ通信11号』の牧田健史氏の「南方熊楠の大英図書館への寄贈書」はたいへんありがたい記事だった。国文学研究資料館では、現在、熊楠の蔵書を順次マイクロフィルム化する作業を進めているが(これまでに日記、田辺抜書、ロンドン抜書を完了、今夏は自筆ノート類を終えて、所蔵版本・写本類へと進みたいと考えている)、そこに田辺、白浜にある資料だけでなく、日本国内にとどまらず海外にある資料も併せて収録することができれば、まさに熊楠の知的世界の全体像が伺えることになる。今後もこうしたアメリカ、イギリスなど各国の熊楠の関係資料の調査が進むことが切望される。

 ただ、3点紹介された内の『新著聞集』を『古今著聞集』と関係づけて解説されたのは、牧田氏の勘違いで、これは神谷養勇軒の編になる1749(寛延2)年刊の版本。熊楠は「読『一代男輪講』」(平凡社版『全集 第四巻』15-16頁)で、「月また珍しき不破の万作、勢多の道橋の詰にして、蘭麝のかおり人の袖にうつせしことも、云々」。これはよほど名高い若契の故事で、吾輩和歌山の中学校に明治十二年入ったころまで、士族の息子などにこの話を知った者が多かった。……一番古く何に出でおるか知らねど、寛延二年板『新著聞集』崇行篇第五の、男色に縁厚い一番尻に、いと詳しく述べられある。」と同著を引用している。続けて熊楠は、「この書は延宝八年六十で死んだ椋梨一雪の著という。しかし書中に、「椋梨一雪が父幸温は寛永十七年身まかり、云々」とあり、赤穂義士の復讐その他一雪死後のことを少なからず載せあるから、一雪のみの著とは思われぬ。一雪の原著に後人が多少書き加えたものかとも思う。」と述べていた。

  養勇軒は紀伊和歌山藩士で、俳人椋梨一雪(1631〜)の『続著聞集』の巻1、2を除き、巻3以下に若干の他の資料を加え、編集し直して出版したのである(一雪については井上敏幸「椋梨一雪年譜考」近世文芸32号、1980.3に詳しい)。そのことを最初に指摘したのは森銃三氏であったが、その著作集第11巻には、追記として、「本稿については、南方熊楠翁から、掲載誌の『彗星』(偶然だが先の「読『一代男輪講』」もこの雑誌に連載されていた=千本注)に次の如き寄書を得た」といい、「故内藤恥叟の日本文庫に収めた名家年表とかいう書に、新著聞集は椋梨一雪著す、と有たと記憶す。どうも時代が合わぬので、(『彗星』の)二年七号二五頁に疑ひを述べ置いた。今度森君の説を読んで、初めて和歌山藩士神谷善右衛門の著と知得たるを感謝す。大学予備門で同窓だった神谷豊太郎という理学士は、十年程前まで永々旅順工科学堂に教授たり。……氏の父が売り払った石類標本集を予の亡父が買ひ、今に拙蔵中にある。善右衛門は豊太郎氏の先祖か同系かと惟う。また和歌山で小学校友に小池雅之丞と云ふのが、毎々新著聞集刊本を持ち来たつて見せあるいた。或は善右衛門の生家の子孫だつたかと思ふ。と熊楠からの手紙を紹介している(平凡社版『全集 第四巻』121-122頁に再録)。

  熊楠が同書を小学校時代から知っていたこともわかり興味深いが、先の「読『一代男輪講』」の中で熊楠は、「エルシュおよびグリューベルの『百科全書』男色の条は、すこぶる長たらしいもので詳細を極め、このことの研究者の金科玉条とするところだが、それに男色が発達して多少の倫理と文華を成すに及んだのは、ギリシアとペルシアの外に全くない、というような言あり。そう確信して盛んに受け売りする英人に、これはどうだとこの「不破万作恋情」の一条を訳示して、大いに感心させたことあり。」と書いている。熊楠がその時手元に置いていたのは、あるいは牧田氏が紹介された一本であったかもしれない。また熊楠の大英図書館への同書の寄贈には、あるいは英国人に日本の男色文化を知らしめたいという気持ちが心底にあったかもしれない。

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