ここは長いですから、面倒な人は早目に抜けてください。
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ビオトープにかかわる理屈の話(個人的屁理屈)

ビオトープとよばれる自然

 先にも書いたように、ビオトープの名で呼ばれるものは、たいてい 身近かな自然の復活です。そしてそこへ人間がはいってさまざまな 活動をする事が前提になっています。その点で、人間の手が入っていない 原生的な自然の保護活動と大きく異なります。
 そこで求められているものを人里的な自然と呼ぶ事もできましょう。 かつての人々は自然と触れ合い、それを利用しながらの生活を 維持するために、さまざまな知恵をもって、人間のくらしやすい 環境をそのまわりに作って来たと考えられます。それは本来の 自然ではありませんが、人間にとって住みやすく、しかも 自然のしくみに逆らわない事で、多くの生物にとっても居住可能な 環境であったはずです。つまり、利用しながらも壊さないような 環境利用の仕方があったはずです。それがメダカの泳ぐ小川 だったりするわけです。

現状はどうしてこうなったのか?

いま我々の身の回りがそのようになっていないのは、いくつかの理由が 重なりあっているでしょう。
これには二つの面があります。
A:身近な場面で
まず、我々の身の回りの自然との関係が直接に大きく変化しています。
1;農薬や肥料の問題。
畑や水田が様々の生物の生息を許さなくなってしまったこと。
2;人間の生活と周りの自然環境との切り離しの進行。
肥料のための草刈りや薪拾いが行われなくなったこと。
3;土木工事にかかわる地形を改変する方法のの変化。
水路や河川など、改変の規模が大きくなり、いずれも地形を単純に、 平面的に作る方向に進んでいる。
他にもいろいろあるだろうし、むしろもっと大事な要素がある、という 声も聞こえて来そうですが、基本的には人間の生活と周辺の自然を切り 離そうとする動きと思います。
B:人間を取り巻く自然で
他方、身の回りから離れたところでは別の面で大きな変化があります。 ここ数十年で深い森林がほとんどなくなってしまっています。それらは 伐採されて植林されています。その多くはそれまで植林の手の入らな かった場所ですが、それは、技術の進歩によって手を入れられるように なったのではなく、いままであえて手を入れなかった場所です。植えても 育たない場所とか、切ったら後が大変な場所とか・・。和歌山県南部では、 立っているのも大変な急斜面にあった森林が伐採されて、すぐに土砂崩れ につながっているような場所がいくらもあります。
植林は手を入れなければ成立しませんが、そんな場所では手入れも 大変だし、手を入れてもろくな樹が育たないし、山が荒れるのは当然です。 こうして山奥では広い面積で森林が減少し、同時に荒れた植林が広がって しまいました。こうして、広い範囲での環境の劣化が進んでいます。

改善への動き

A:生活そのものの変化には、やむを得ないものもあるでしょう。いまさら 薪取りも無理かもしれません。そういう意味で、昔に帰れ、元の環境に戻せ、 というのはそれ自体が無理でしょう。しかし、平面の川底は河川の浄化能力を 失わせましょうし、鮎も住めなくなります。
かつては川は水を海に流すための排水溝としか考えていませんでした。 しかし、川にはそれ以外にも様々な働きがありますし、(遊びも含めて) 生活の場でもあります。それが分かって来たから、親水的などという言葉が 生まれたのでしょう。実際にやっていることはあまり変わりがありませんが、 それでも、大切に育てて行きたい考え方ではあります。
B:よく森林が荒れるという言葉を聞きますが、多くは植林のことのようです。 植林は木材生産のための畑なので、森林ではありません。ですから手入れが 必要です。にもかかわらず、手入れがされていないのは、必要とされていないからでは ないでしょうか。ならば、むしろ自然林・本当の森林に戻す方法を考えるべき です。森林交付税等の論議で見る、いわゆる森林の効用というのは、自然林で こそ発揮されるもので、植林ではその能力ははるかに落ちます。

そのような意味で、ビオトープとともに語られることが多い里山の再生 というのも一考が必要でしょう。普通、クヌギなどを中心にした落葉広葉 樹林を念頭におくことが多いようですが、それらの多くは人間の利用によって 成立したもので、本来は常緑広葉樹林になるべき地域のようです。ですから、 利用しないのであれば、その形に戻すのが正しい道ではないかと思います。
特に和歌山県南部では、むしろ常緑広葉樹林のほうが身近に多かった のではないでしょうか。ですから、小規模なものでも、戻せるものは その形に戻してゆく方が良いのではないでしょうか。

遷移とビオトープ

遷移とは?

 人間の手が入らない場合、ある場所の生物、特に植物の様子は一定の形 で変化するものと思われます。たとえば草原は森林に、陽樹林は陰樹林に、 池は埋まって次第に草原になる方向に変化する傾向があります。そして 採集的にはある程度一定の形の森林になると考えます。このような 変化を生態学で遷移とよんでいます。
また、その行き着く最後の森の形を 極相と呼びます。和歌山県など西南日本では照葉樹林がそれに 当たります。これがこの地域でのもっとも豊かな自然の形といって いいわけです。
 しかし、人間はこれまでそれに手を加えてきました。そのため今では まともな照葉樹林を見る事のできない地域がほとんどの様です。和歌山県は その中でまだそのような林が見られる場所ではあるという事ですが…。他方、 そのような極相林よりも人間の手が入った林のほうが見かける生き物が 多くて楽しい、という側面もあります。だからこそ人里的自然が懐かしさを もって語られるわけですが、そのような自然はいわゆる遷移による変化を 途中でストップさせるか、逆戻りさせる事で作られるようです。たとえば、 松林はそのままではやがて林内が暗くなり、林床に落ち葉がたまって、そ のため松の芽生えがでなくなり、広葉樹の森に変化して行くはずですが、 かつては松の落ち葉や枯れ枝をたき付けにするために集めたそうで、 そのために落ち葉がたまらず、いつまでも松林の状態で保たれたと 考えられます。

遷移とビオトープ

 ですから、人里的自然の復活を目指すならば、それはどうしても人間の手で 遷移を止める事が必要になるでしょう。たとえば今ではどこでも見ることの できる休耕田は、たいてい数年で草原になります。池がただの水たまりなら、 それはそのような変化によってあっという間に陸化します。草原には木が はえてきます。長期間池や草原のままで存在するところは、そのための 特別なしくみを持っているわけです。そうでなければ、池や草原のままで いさせるためにはこちらが手を加えなければなりません。池ならば底をさらい、 草原は草刈りをする事で、そのような事は可能になるわけです。要は、 かつて田んぼの周りや道端に行って来た手入れのやりかたなのですが。


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