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◆牧原(まきばる/マチバル)



※ この地図は、参謀本部陸地測量部発行の1/50,000地形図「嘉手納」(大正10.12)を使用したものである

所在:読谷村牧原
地形図:沖縄市北部/沖縄市北部
形態:平坦地に家屋が散在する
離村の背景:米軍による接収
標高:約20〜40m
訪問:2010年12月

 

 村の南部にある。大字の全域が米軍の軍用地であったが、現在は一部が返還されゴルフ場になっている。
 「角川」によると、大字牧原は明治41年大字大湾(おおわん)より分離し成立(ただし地籍が分離したのは昭和26年)。戦後米軍の軍用地として接収されたのちは、元住民は村内大木(おおき/ウフギ)・比謝(ひじゃ/フィージャ)に移住。移住後も牧原自治会を組織。なお「住民の一部は、基地内の黙認耕作地でサトウキビ栽培を行っている」とあるが、現在も続けられているかは未確認。
 また村史によると、集落の起源は、廃藩置県後に首里や那覇から移住してきた下級士族が屋取(※1)を構え開墾を始めたこと。もともとは琉球王府の馬飼育場だったが(地名の由来でもある)、王府が没落士族に対し開墾を許可。土地は譲渡する約束だったが、明治末期に入植地は製糖会社に売却され、全戸が小作農として就労。昭和19年の空襲をきっかけとして住民は各地に避難。帰郷後は波平(なみひら)などを経て、現在は多くが伊良皆(いらみな/イランマ)西部から大木東部にかけ居住。
 昭和21年9月当時の分散状況(収容所)は、石川市【現・うるま市】278人、コザ市【現・沖縄市】36人、前原(※2)19人、金武町中川(なかがわ)7人、宜野座村宜野座32人、名護市田井等(たいら)12人。

※1 屋取(やどり)は、廃藩置県により失職した士族が開墾のために作った住居
※2 地名の詳細は不明

 

 

◆◆写真はありません◆◆

 

 

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