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宇多良(うたら)炭礦



※ この地図は、陸地測量部参謀本部発行の1/50,000地形図「西表島南部」(大正12.6)を使用したものである

在:竹富町西表(いりおもて)字仲良(なから)
地形図:船浦/西表島西部
形態:川沿いに家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:数m
訪問:2010年12月

 

 島の北部、浦内(うらうち)川支流の宇多良川右岸にある。
 資料によると、この炭礦は丸三合名会社が昭和8年に発見。同社を西表随一の大炭礦に伸し上げ、昭和10年代に隆盛を極めた。同地には多数の納屋(住居)のほか売店や芝居小屋(劇場)・医局・浴場・私立の小学校(みどり学園)なども設置されていた。ただし坑夫の住宅は劣悪で、また労働は苛酷であったという。
 現在は観光用の木道や案内板が設置されており、ここから鍛冶屋の跡やガジュマルに絡まれたレールの支柱(写真4・5)を見ることができる。木道から外れた場所にも貯水槽や浴場の跡などの遺構が確認できる(写真6〜8)。
 以下は同地に設置された「萬骨碑」(2010年建立)(写真10)の全文(「炭坑」の表記は原文のまま)。


 西表炭坑は一八八六(明治19)年に開坑 以来元成屋や内離島を中心に九州沖縄台湾から多くの坑夫が採炭に従事炭坑独特の納屋制度のもと強制労働が行われた 宇多良炭坑は一九三六(昭和十一)年(※)に丸三炭坑が開坑 当時としては近代的設備を備えていた しかし太平洋戦争勃発後増産による過酷な労働とマラリアのため幾多の犠牲者を出した 二〇〇七年宇多良炭坑跡は近代化産業遺産に認定された ここに坑夫の功を讃え犠牲者の霊を弔う碑を建立する

※ ただしこちらでは昭和8年

 なお木に巻かれたテープを頼りに貯水タンク脇の道を奥へ進んでみたが、湿地帯の林をぐるりと回った後いつの間にか元の場所に戻ってきてしまった。また後に改めてカヤックで訪れたが、宇多良橋(写真10)と少し開けた平地を確認したのみ。

 


写真1 往時の様子(案内板より)

写真2  往時の様子。貯炭場付近(案内板より)

写真3 炭礦関係者の墓(案内板より)
 
写真4 レール支柱とガジュマル

写真5 同

写真6 同

写真7 貯水槽

写真8 便所跡

写真9 浴場跡

写真10 遺構

写真11 萬骨碑

写真12 宇多良橋

写真13 上流側の平坦地

写真14 同

 

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