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成屋(なりや)

所在:竹富町西表(いりおもて)字成屋
地形図:船浦/西表島西部
形態:海岸付近に家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:数m
訪問:2010年12月

 

 内離島(うちぱなりじま)北部、西表島の白浜(しらはま)を望む海岸付近にある。
 元は農耕を営む集落であったと思われるが、明治期に石炭の採掘が開始されて以来炭礦集落として変貌しているよう(※1)。資料の写真(大正時代)にも多くの坑夫納屋(住居)が軒を連ねている。明治時代の古地図には、6軒の家屋(※2)のほか数箇所の区画があり、田や畑・井戸も見られる。のち集落跡は放牧場に転用されている(最近の地図でも「放牧場」と記載)が、現在は行われていない。
 訪問時はチャーター船で上陸。船主の話では、北部の海岸付近も元は水田があり、炭礦の住宅も建ったという。また放牧は20年くらい前まで行われていた。井戸と御嶽(※3)の場所を教えていただき、集落跡でこれらを確認。瀬戸物のかけらや壜など生活を窺わせるものも見られた(後年のものだろう)。また南岸沿いの遺構も案内していただき、坑口や煙突状の通気口、貯水槽の跡を確認できた。ただし北部の海岸付近も併せ30分程度の探索であったため、萬魂碑や炭礦遺跡・戦争遺跡の発見には至らなかった(※4)
 資料によると、明治期に三井物産が採掘を開始。同25年に三井の代理人・三谷伊兵衛が土地を借り零細な採炭を開始。その後大正期を全盛期としてに西表炭鉱(のち沖縄炭鉱と改称)・琉球炭鉱(のち河野合名会社と改称)が採掘するも、昭和に入り衰退(炭礦に関してはこちらも参照)。沖縄の本土復帰前、本土資本が集落跡を含む島の一部を買収。牧場として整地され、かつての炭礦跡も敷き均されてしまった。かつての集落跡付近には、昭和庚辰(昭和15)年建立の「萬魂碑」がある(実物は「萬魂牌」)。
 なお西表島(いりおもてじま)に「元成屋」があるが、関連は分からず。笹森儀助(ささもり・ぎすけ)の成屋に関する記述に「成屋村古昔ハ船浮(ふなうき)港南ノ海岸(略)ニ創設セシモ高山ノ麓ニシテ山猪ノ害甚シク、之ヲ防ク術ニ苦シミ現地ニ移リシト云フ」というものがあるが、元成屋の位置とは異なり判然としない。

※1 Wikipediaの「内離島」の項目には「大正9年に集落が廃絶」とあるが、旧来の住民が0になったことを意味するか
※2 先述の笹森氏の記述にも「戸数六」とある(明治26年7月)
※3 御嶽(うたき)は、琉球の信仰に基づいて作られた宗教施設
※4 後で知るところによると、成屋の東部には炭礦の遺構が残っており観光会社によるツアーも組まれている。歩道や案内板もあり、ある程度整備されているよう

 

≪北部海岸≫

写真1 水田跡
≪本集落≫

写真2 浜

写真3 遺構

写真4 壜

写真5 井戸

写真6 何かの跡?

写真7 御嶽
≪南岸≫

写真8 坑口跡(写真中央)

写真9 貯水槽跡(写真中央)

 

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