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◆安良(やすら/ヤッサ)

所在:石垣市平久保(ひらくぼ/ペーグブ)字安良
地形図:伊原間/石垣島東北部
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m
訪問:2010年12月

 

 市の北部、平久保の集落より山を挟んだ西側の海岸付近にある。現在は放牧場。
 平久保より平野(ひらの)を経由し海岸に沿って訪れることもできるが、今回は平久保越道(ペーグブクイチィ)(=安良越道)より訪問。これは安良岳・山当山(やまあたりやま/ヤマタレーヤマ)の間の谷筋を通る山道で、かつては平久保・安良両集落間の往来があった。
 現在平久保側には低い金網が巡らされているが、これをたどると登り口の赤いテープが見つかる。平久保側は比較的緩やかな斜面。安良側はやや急な斜面で、訪問時は倒木などで迷いやすくなっていた。
 資料の地図を頼りに集落跡を訪れてみたが、カヤや灌木の藪がひどく屋敷跡や御嶽は確認できず。辛うじて何かの石積みを確認(写真3)。全体像が把握できたのは、道脇にある「風葬墓」のみであった(写真4)。

 以下は資料『古郷安良の原風景』より引用。

明治45年まで濱崎(はまさき)家の人々が住んでいた(「濱」は異体字。さんずいにうかんむり+眉+ハ)
1753年に役人が配置され安良村が独立村となった当時、集落は山寄りに位置していた
域内には拝所(御嶽)(※)が少なくとも3箇所ある
 1‐史料に記された御嶽(大城御嶽)。 安良村が創建された際(1753年)に大城御嶽は大浜村の大城御嶽の神を奉遷した。1771年の大津波で流壊したが、後に再建されたと記されている
 2‐安良村跡の御嶽
 3‐クバオン(クバ御嶽)

※ 「御嶽(うたき)」は、琉球の信仰に基づいて作られた宗教施設。「オン」は八重山での呼称

安良の人口動態
1738年30人、1750年38人、1753年348人、1761年411人、1771年482人→21人→72人、1788年6人→56人、1873年26人、1893年19人、1912人0人
(1771年の人口減少は津波によるもの。1788年までには疫病や飢饉により6人に減少。他地域からの移入により増加)

 以下は同書などより、当方が作成した年表。

 享保19(1734)  史料(「参遣状」「八重山島年来記」)に「やすら」「屋すら」として登場
 宝暦3(1753)  役人が配置され、独立村となる。その際伊原間(いばるま/イバローマ)村から48人、白保(しらほ/シィサブ)村から100人、竹富(たけとみ)村から200人を寄百姓する
 明和8(1771)  明和の大津波。482人中461人が死亡。家屋90軒、番所1箇所、役人詰屋6軒、大城御嶽が壊され、田畑、家畜などにも甚大な被害
   平久保村から51人を寄百姓し、「安良原」に集落を再建
 天明8(1788)  川平(かびら/カビィラ)と野底(のそこ/ヌスク)から50人を寄百姓
 明治26  笹森儀助(ささもり・ぎすけ)、濱崎与利方に滞在。「戸数六、人口十九」と記す。のち著書『南嶋探験』で「数十年ヲ経ス廃村トナルヘキ、病毒激烈ニシテ甚ダシク人口減少ノ村名」として安良村の名を挙げている
 明治45  濱崎家3世帯が離村し、廃村
 昭和63  市による安良の調査開始

 


写真1 安良川

写真2 浜

写真3 石積み

写真4 遺構

写真5 風葬墓

写真6 集落風景

写真7 平久保越道(安良側)

 

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