◆藤田(ふじた)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「頭地」(昭和22.9)を使用したものである
所在:相良村四浦東(ようらひがし)
地形図:頭地/頭地 形態:川沿いに家屋が集まる 標高:約210m
訪問:2014年8月
大字四浦東の北西部、川辺(かわべ)川左岸にある。現在計画中の川辺川ダムにより離村し、対岸の野原や五木村のいくつかの集落とともに水没が予定されている。
村誌によると、明治初期には5軒の家があったといわれる(元祖は6軒か)。その後分家や転入により戸数が増加したよのこと。また同書による元住民への聞き取りによると、主な生業は農業と炭焼きであったよう。水田は少ないが、焼畑の農地(コバ)で自給用のソバや芋を作ったりしたほか、商品作物として茶やシイタケを栽培。またタブシバ(椨の柴。線香の材料にする)等の様々な林産物も収入源となっていた。昭和7年木製の藤野橋が完成。電気導入は昭和11年で、野原と同時期。昭和49年33戸123人。昭和58年までに全戸転出。
現地は既に整地されており、集落の痕跡はほぼ皆無。旧国道沿いの看板(写真2)や、対岸の野原とを結ぶ吊り橋(藤田橋か)が少ない名残といえる。なお現国道沿いには「藤田地蔵堂」と「龍谷水神」が祀られた東屋がある(写真6)。以下はここにある碑(平成13年、藤田古里会による)の全文。
藤田の歴史
年号不明のため古老や先人達の言伝と色々な物語等で推測して此処に記述するものです。
いまを遡ること四・五百年前、桃山時代〜江戸時代西暦千五六〇〇年頃、いや対岸の野原遺跡等を考えると、同等の時代からとも思える時代より、藤田六人衆の中、誰かの人により開拓が始まり今より三〇〇数十年前、江戸時代中期頃集落の証として藤田地蔵龍谷水神を建立されたものと思われます。
その物証として、銀杏の大木と集落内に沢山植えられた柿の木の中に根元の直径一米に近い数本の大木は確かな物証だと思われます。
又、地蔵堂は、江戸時代参勤交代の時、殿様達の休憩所でもあり、旅人達の一夜の宿でもあったとの言伝もあります。
一、阿川家
一、田山家
一、豊岡家
一、藤村家
一、藤田家
分 岩本家
一、丸山家
継 丸尾家
上記の先人達に始まり、明治、大正、昭和と分家並びに新転入者によって昭和五十六―五十八年当時二十六世帯の大集落が形成しておりました。
国策の為とは言え、第二の古里を求めて村内外を始め県外等に別れ別れになられた人達の将来の安全と益々の繁栄を祈念して此処に古の碑を建立する。
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