◆竹ヶ成(たけがなる)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「松山北部」(昭和22.8)を使用したものである
所在:今治市玉川町木地(たまがわちょうきじ)
地形図:鈍川/松山北部
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約380m
訪問:2017年12月
大字木地の北部、木地川沿いにある。
集落は下流側と上流側に小さく分かれており、それぞれ「千とせばし」と竹ヶ成橋を渡った先にある。その他木地川沿いには別荘のような家屋がいくらか見られるが、これらは往時の宅地ではなく後年になって建てられたものと思われる。
下流側では学校(鈍川小学校木地分校)の跡と複数の屋敷跡が見られた。碑によると、明治43年4月木地分教場設立。昭和44年3月閉校。
上流側には数軒の家屋がある。諸情報では1世帯が居住しているとのことであったが、木地川沿いの町道が崩落の恐れがあるためか、人の気配は見られなかった。
なお上木地との境は不明だが、ここから500mほど上流、林道ヨコクラ線との分岐付近には門脇神社の跡がある。
県史によると、木地地区の概要は以下のとおり。
町内には「木地」と呼ばれる集落が龍岡(りゅうおか)地区・鈍川(にぶかわ)地区の2箇所にあり、それぞれ龍岡木地・鈍川木地と呼ばれた(当地は後者)。
鈍川木地に伝わる伝承や、門田・門岡といった名字(木地師の子孫の姓であるといわれている)、木地師の道具が残されていたことなどから、確証はないものの木地師の定着した集落であるとされている。
主な生業は木炭の製造。生産した木炭は、仲買人を介し今治市の木炭問屋に出荷されるものが多かった。
水田は木地川沿いに開けていたが、水が冷たいため米の収量は少なく、自給するまでには至らなかった。集落の周囲では焼畑が行われ、自給用の稗・粟・そば・とうもろこし・大豆・小豆などを栽培。
大正末年上木地15戸、中木地11戸、下木地7戸の計33戸。戦中戦後は都市部からの疎開などもあり40戸程度になっていたが、昭和20年代後半から離村が相次ぎ、昭和35年21戸。昭和43年無住となる。木材や木炭の需要減少や交通が不便であることが要因。
離村先の大部分は今治市。
農地はすべて耕作放棄され、植林地や荒地になっている。
また町誌によると、学校は明治7年成諒小学校(後の鈍川小学校)の分校として開設。以下は閉校までの児童数の変遷。
昭和28 |
昭和29 |
昭和30 |
昭和31 |
昭和32 |
昭和33 |
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昭和35 |
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(不明) |
(不明) |
16 |
(不明) |
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