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◆脇之谷(わきのたに)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三島」(昭和22.2)を使用したものである

所在:四国中央市金砂町小川山(きんしゃちょうおがわやま)
地形図:伊予三島/伊予三島
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約240m
訪問:2018年8月

 

 大字小川山の北部、銅山(どうざん)川左岸にある。
 銅山川に架かる大藪橋を渡り、まず上流側を訪問。何かの施設跡(写真4)や家屋、小屋、農地跡が見られ、最も西の宅地付近には「銅山川隧道(写真13)がある。隧道は徒歩道に通じているが、用途やどこに通じているのかは不明。また最上流部には銅山川第二発電所(写真14)がある。
 最近の地図では大藪橋より下流にも建物が記されているが、現存せず。特徴的な遺構(写真15)のある平坦地があり、人家であったかは不明。後方は農地跡。
 愛媛県生涯学習センターのウェブサイトのデータベース『えひめの記憶』によると、戸数5戸。ダムの建設に伴い全戸立ち退きしたが、堤体より下流のため水没は免れている。
 市史によると、当地にあった大藪(おおやぶ)小学校の主な沿革は以下のとおり。

 明治10.7.24  川口学校の分校として開設。字大成の三木氏宅にて授業開始
 明治10.11  字脇之谷の高橋氏宅を借用し教場とする
 明治10.12  校名を生養校と改める
 明治13.12  茅葺き新築校舎が寄付される
 明治16.7  川口分校と改称(※1)
 明治19.2  川口尋常小学校第一分校となる
 明治20.4  小学校簡易科大藪校となる
 明治20.10  大藪簡易小学校となる

 明治25.8

 大藪尋常小学校となる
 明治30.5  校舎新築
 昭和16.4  大藪国民学校となる(※2)
 昭和22.4  大藪小学校となる(※3)
 昭和48  閉校

※1 当時川口に「川口学校」が存在しており疑問が持たれるが、ここでは本文に従った
※2 本文では昭和17年とあるが、国民学校令は昭和16年に公布されている
※3 当方による補足。この年学制改革により新制小学校が発足

 また児童数の推移は以下のとおり。

年度 明治32 明治35 明治38 明治40 明治41 大正2 大正9 大正14 昭和3 昭和16 昭和20

昭和29

昭和30 昭和36 昭和39
児童数 20 24 27 33 41 31 29 27 26 26 21 22 30 34 27


  HEYANEKO氏によると、先の「何かの施設跡」の周辺が校地であったとのこと。

 


写真1 大藪橋

写真2 橋の袂の石仏(右岸)

写真3 校門

写真4 学校跡の建物

写真5 校地の遊具

写真6 校地脇の家屋

写真7 道

写真8 屋敷跡?

写真9 道路沿いにて

写真10 農地跡

写真11 小屋

写真12 廃屋

写真13 小さな滝と隧道(中央やや左上)

写真14 発電所

写真15 遺構

写真15 農地跡

 

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