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◆津波島(つばじま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「土生」(昭和21.11)を使用したものである

所在:上島町岩城
地形図:岩城/土生
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m?
訪問:2021年11月

 

 岩城島の岩城港より、南南東におよそ2.3qにある島。
 資料『シマダス』によると、最盛期8戸。昭和初期までは4戸が居住。昭和61年より国土庁(当時)のコミュニティ・アイランド推進事業により整備され、多目的広場・キャンプ場・レストハウスなどが設けられた。
 村誌によると、明治30年4月9戸62人。明治9年の記録で「津波組」が現れており、小さいながらも当時1集落として扱われていたことが分かる。明治20年の組長選挙で票数は8であり、この時は8戸であったよう。大正5年9月の「小学校々舎地々均シノ件」では、「津波九戸」とある。昭和3年1月、それまで「組」や「部落」と称していたものを村の規定で「区」と呼ぶこととなり、この時に「津波」は削除されている。なお文化2(1805)年の「越智嶋岩城村作初穂差上米人別帳」では、「津波」で1名が差上米を納めたことが記録されており、この時に既にある程度の水田耕作が行われていたことが窺える。
 昭和59年6月1日、
赤穂根島とともに電気導入。観光施設の充実が図られた(岩城島から伯方島へ架設の高圧電線とは別件)。
 村誌で引用する「岩城村地誌」(明治13年刊行)には、「人家ハ八戸男廿三口女廿六口 山上樹木ヲ生シ田畑寡少ニシテ所業
赤穂根島ニ譲ル」とある。

 島への上陸は、施設を管理する岩城島の民宿の提携船を利用することで可能。船着場から入るとすぐに多目的広場があり、その右手がレストハウスやキャンプ場・バンガロー・テニスコートなどとなっている。
 無住となった時期は昭和初期とのことだが、1970年代の航空写真では農作業で滞在するためか家屋のようなものが複数見られ、現在もこの名残を見ることができる。現在も耕作されている農地は探索中に確認できなかったが、比較的最近まで管理されていたと思われる柑橘の畑がいくらか見られた。なお1960年代の航空写真ではほぼ全島に亘って農地が開墾され、1970年代のものでもなお広く残っている。
 最近の地形図では船着場の南西隣の浜にも建物が記されており、ここでも建物の跡を確認(農業小屋跡?)。潮位が低いため海伝いで到達できたが、山越えの道もどこかから通じているよう。

 


写真1 島遠景(西側より撮影)

写真2 桟橋

写真3 浜

写真4 かつての船着場

写真5 多目的広場(農地跡)とレストハウス

写真6 コミュニティアイランドの看板

写真7 休憩施設?

写真8 写真7脇のポンプ(往時からのものか)

写真9 東の浜。右の建物は写真7


写真10 東の浜の桟橋にて。遠方は四阪島(しさかじま)


写真11 何かの看板(失念)の地図。北端にも「キャンプ場」と見える

写真12 電柱札。「津波支」とある

写真13 溜め池?

写真14 建物跡?

写真15 柑橘畑跡

写真16 農業小屋跡の瓦

写真17 農地跡

写真18 建物(往時の宅地?)

写真19 写真18の井戸

写真20 柑橘畑跡

写真21 農業小屋

写真22 井戸

写真23 井戸

写真24 遺構など

写真25 建物跡(往時の宅地?)

写真26 島内の道

写真27 農地跡

写真28 高みより施設方面を望む

写真29 ビヤクビ鼻(北端の岬)付近の浜。左は船の残骸

写真30 ビヤクビ鼻付近のキャンプ設備

写真31 溜め池?

写真32 施設群の南西隣の浜

写真33 浜にて。陶片

写真34 物置小屋

写真35 井戸

写真36 浜からのスロープ 

写真37 農業小屋の跡

写真38 円筒状の遺構と貯水槽(後方水面)

写真39 谷沿いの道

 

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