戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆赤穂根島(あかほねじま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「土生」(昭和21.11)を使用したものである

所在:上島町岩城
地形図:岩城/土生
形態:海沿いおよび谷沿い?
標高:数m〜?
訪問:2021年11月

 

 岩城島の南東にある島。岩城港から海を挟んでおよそ500m。
 資料『シマダス』によると、近代に入って無人化したといわれている。岩城の住民が稲作と果樹栽培を営み、昭和55年からは岩城港から竹ノ浦(島北部の地名)まで通い耕作用の船が不定期で運行されていた。昭和56年に農道網整備事業により農道が整備され、平成15年度からは県の畜産試験場により、牛の放牧で
耕作放棄地の荒廃を防止する実証実験が行われている。
 
平成13年9月より通い耕作を行っていた夫婦により有人化したが、同23年に無人化。しかし国勢調査では平成27年に2人となっている。
 
村誌によると、明治30年4月3戸16人。文化2(1805)年の「越智嶋岩城村作初穂差上米人別帳」では、「大手原」(島南部の地名)で1名が差上米を納めたことが記録され、この時に既にある程度の水田耕作が行われていたことが窺える。ただし同書では、集落を形成していたものとは考えられないとしている。
 昭和59年6月1日、
津波島とともに電気導入。農業施設の近代化が図られた(岩城島から伯方島へ架設の高圧電線とは別件)。
 島内には小字として、沖浦・法師崎・大三谷・中三谷・三谷・矢櫃・周田岩・竹ノ浦・向鳩岡・逢・本向井・植松・初浜・丸串・下リ松・大手原があったが、小字は昭和47年に廃止されている。このうち大三谷・中三谷・三谷は島の北東部沿岸から東の谷沿い、本向井・植松は西部の谷沿い、竹ノ浦は北部中央の谷沿い、大手原は南部の谷沿い。
 村誌で引用する「岩城村地誌」(明治13年刊行)では、「人家四戸内男九口女十口アリ山上ニ樹木少シ間ニ田畑アリ稲粱麦作甘藷ニ宜シ島民男女ヲ別タツ(本文註:ワカタズ)農業ヲ専トス」とある。
 「角川」では、「約50haの果樹園と7haの水田があり、岩城島からの出作りが行われている」とある。

 上陸は北部(竹ノ浦)より。ここから右回りに島を半周した(時間の都合により東部は訪問できず)。
 最近の航空写真では竹ノ浦の谷の中流付近に小屋やビニールハウスのようなものが見られるが、あまり管理されている様子はない。鞍部を越えると大手原で、ここではやや古めの土壁の小屋や井戸などが見られた。ほか島の南西部には温室のような建物が見られる。
 なお船主の話では放し飼いにされた牛が浜によく現れるとのことだが、探索中にこれを見かけることはなかった。また元村長夫妻(先述の通い耕作の夫婦と思われる)が島内で耕作をしているとのことだが、現在も管理されている農地を見かけることはなかった(農地は島の東部?)。
 先述のとおり戸籍上?は人口2人となっているが、実質的な居住者はないものと思われる。

 


写真1 島遠景(南西側より撮影)

写真2 船着場からの風景。対岸は岩城島海原地区

写真3 浜

写真4 船着場付近の石仏

写真5 水田跡(以下旧小字竹ノ浦)

写真6 谷沿いの道

写真7 モノレール

写真8 水田跡

写真9 小屋とビニールハウス

写真10 池?

写真11 写真9・10付近の風景

写真12 モノレール

写真13 陶片

写真14 柑橘畑跡

写真15 小屋

写真16 農地跡(以下旧小字大手原)

写真17 運搬車

写真18 小屋

写真19 柑橘畑跡

写真20 小屋

写真21 電柱札。「
ツバシセン」とある

写真22 小屋。往時の宅地に建てたものか

写真23 井戸等

写真24 車輛

写真25 車輛

写真26 浜への道

写真27 浜

写真28 石垣(旧小字下リ松)

写真29 溜め池(旧小字丸串)

写真30 温室など(同)

写真31 西部の浜

写真32 柑橘畑跡(旧小字植松)

写真33 物置小屋(同)

写真34 水田跡?(以下写真42まで旧小字植松および本向井)

写真35 写真34にて

写真36 小屋の跡

写真37 谷沿いの道

写真38 小屋跡の瓦

写真39 井戸

写真40 小屋

写真41 浜

写真42 石仏

写真43 海沿いの道

写真44 溜め池

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ