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◆横尾(よこお/ヨコボ)



※ 明色部
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「仁尾」(昭和22.6)を使用したものである

所在:三豊市詫間町志々島(たくまちょうししじま)字横尾
地形図:讃岐粟島/仁尾
形態:海沿いから斜面にかけて家屋が集まる
標高:数m〜約50m
訪問:2019年12月

 

 志々島の南西部、本村(ほんむら)の船着場から海沿いの道(「浜の道」)で1qほどの距離にある。
 本村で伺った話では、かつては10戸ほど。高齢男性1人が5年以上前に転出し無住となったとのこと。往時は漁撈に携わる家が多く、麦や芋の畑もあったという。田がなかったため米は購入していた。地元では転訛で「ヨコボ」の呼称が用いられている。
 資料『志々島の話』によると、「志々島の地名・呼び名」の地図に10余棟の人家と思われる建物が記され、海沿いにも小型の建物が点在。また共同井戸が1箇所。
 参考までに同書より島の産業について述べると、旧来より主な産業は漁業であったが、戦後の人口流出や海岸埋め立て・海洋汚染・漁撈方法の変化等によって減少したとのこと。農業は小麦・大麦・甘藷・唐辛子・除虫菊・棉等が主体であったが、昭和30頃から花卉栽培が導入され島の全農家に広まったという。ほかタバコ・ハッカ・桑等を栽培した時期もあった。花卉はキンセンカ・菊から始まり、のちマーガレット・ストックも栽培。なお現在に至るまで水田はない。

 現地は離村が最近であったこともあり、集落には家屋が多数残る。ここから「横尾の辻(よこおのつじ)(※1)と呼ばれるピークに向かう途中には、墓地(詣り墓)の霊屋(※2)のようなものが見られた(写真21)。また最近の地形図には海沿いに墓地の記号が見られるが、それらしいものは確認できない(※3)
 なお往時は島の中腹をほぼ一周する道(「中道」あるいは「ヨコ道」)が主要道であったと思われるが、現在は西部から南部にかけて荒れており通行困難。

※1 資料では通称が「よこんぼつじ」となっているが、他の地名の通称では助詞起源の「の」が撥音化するケースが散見され、「よこぼんつじ」の誤植である可能性がある
※2 両墓制により、死者の霊を祀る「詣り墓」と、遺体を埋葬する「埋め墓」を別々に設けていた。志々島などでは、埋め墓には家のミニチュアのような形状の霊屋を置く
※3 ただし資料には、埋め墓が海岸近くにあることが記されている

 


写真1 集落遠景


写真2 家屋


写真3 石仏


写真4 家屋


写真5 小屋の跡

写真6 小屋

写真7 海沿いの道

写真8 道

写真9 井戸

写真10 石仏

写真11 廃屋

写真12 道

写真13 屋敷跡

写真14 廃屋

写真15 古い電柱

写真16 宅地の門

写真17 家屋

写真18 家屋と風景

写真19 倒潰家屋

写真20 宅地登り口。奥に家屋が見える

写真21 家屋

写真22 墓?

(写真23 横尾の辻)

(写真24 横尾の辻から南東を望む。正面は詫間方面)

(写真25 横尾の辻より北を望む。正面は高見島(たかみじま)、右奥は広島(ひろしま)〔=讃岐広島〕)

 

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