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◆楠ノ倉(くすのくら)



※ 明色部
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「仁尾」(昭和22.6)を加工し使用したものである

所在:三豊市詫間町志々島(たくまちょうししじま)字楠ノ倉
地形図:讃岐粟島/仁尾
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:?
訪問:2019年12月

 

 志々島の北部。本村(ほんむら)地区の北西で、水ノ浦の東にある。
 県指定の天然記念物である「志々島の大楠」があり(昭和45年指定)、その根元には大楠神社が祀られている。かつては居住があったことや個別の地名があることは事後に資料で確認したため、訪問時は詳細な探索はしなかった。
 資料『志々島の話』によると、明治初期5戸。刊行の時点(昭和59年)で無住となって久しいようだが、少なくとも昭和18年にはまだ居住があったことが窺える(後述の逸話より)。
 大楠および大楠神社については、次のような逸話がある。

 明治初期、楠ノ倉の1人の漁師が舟に使うため楠の大枝を伐り落としたところ、重い熱病にかかってしまった。心配した家族が丸亀の祈祷師に拝んでもらったところ、祈祷師に憑依した大楠の主から「神に祀り、崇め奉れば許す」との声を受け、京都伏見の稲荷神社から御霊を授かりこれを祀った。これが今の大楠神社(楠公正一位稲荷大明神)である。
 それ以来、楠ノ倉の大楠に対する畏敬の念は相当なものであった。ある時(大正頃?)本村にある寺院(利益院)の修繕費用の捻出のため大楠を伐る話が出たが、楠ノ倉の山地氏より祟りの話を出され伐採は取りやめとなった。さらに昭和18年にも寺院本堂の屋根が落ち同様の提案があったが、これも楠ノ倉の大楠氏により同様に防がれている。

 また利益院の墓地には「大楠重吉之碑」がある。氏は楠ノ倉在住で、明治23年9月の暴風雨の際に隣人の山地家を助けようとして犠牲となった。その義挙は人々の心を打ったという。碑は明治24年9月、妻の兄によって建立。

 浜の近くには墓地があるとのこと(※)

※ 塩飽諸島の一部では、遺体を埋葬するための「埋め墓」と死者の霊を祀る「詣り墓」を別々の場所に設ける「両墓制」の墓が現存する。志々島では、埋め墓は家のミニチュアのような霊屋が置かれ、詣り墓は一般的な墓石が建てられている。当地にはこのうち埋め墓がある

 


写真1 大楠


写真2 大楠神社

 

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