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◆豊益(とよます)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「阿波富岡」(昭和26.3)を使用したものである

所在:阿南市豊益町(とよますちょう)
地形図:阿波富岡/阿波富岡
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m
訪問:2025年12月

 

 派川那賀川の河口付近右岸にある。現在の王子製紙富岡工場の敷地内。

 市史によると、当地は江戸末期に西路見(さいろみ)村から分村して成立した新田である「豊益新田」。宝暦5(1755)年那賀郡刈屋村(現在の那賀川町刈屋)の庄屋・八郎兵衛が、藩より新田開発の許可を受けたが、資金難で着手できず。翌年家老の賀島上総(8代)の指示によって、柳島村の豪農・3代伊勢権左衛門に名負いの切り替えがされて新田開発が再許可された。権左衛門は、宝暦6(1756)年より福村の東浜より新田開発に着手し同7年に完成したが、東・北の堤防が同年7月の暴風雨で決壊し、新田と塩浜が流失した。その後再び堤を築き、松を植え、田地と松林を完成させた。
 伊勢家4代目は一時引き揚げてしまったが、天保2(1831)年5代目の時には藩に多額の冥加銀を献上し、再開拓の許可を得てこの地を福村新田と名付けた。翌年より6代目により再開拓が初められ、新田は次第に拡大していった。
 天保7(1836)年5月、郡代所は当地を西路見村の支配から外すとともに、伊勢氏を柳島村から当地に移住するよう命じ、同家を新田の名主に任じた。伊勢氏は地内の吉田に移り、同年9月、新田の名を豊益と改称した。
 嘉永7(1854)年、新田は小松島浦の井上氏に売却された。
 その後安政の大地震や慶応の大水で新田は大きな被害があったが、井上氏によって修復され、明治維新前後には総面積が31町余となっている。
 
明治9年頃9戸46人(すべて農業)(出典は『阿波国那賀郡村誌』)。明治34年11戸53人。
 
昭和33年9月、神崎製紙株式会社(のちの王子製紙)の用地となることが決まり、同34年8月操業開始。市内で初の大規模工場で、臨海工業都市を目指す阿南市にとって企業立地の先駆けとなった。

 「角川」によると、豊益町は近世の豊益新田村(那賀郡のうち)。「豊増新田」とも。明治22年富岡村の大字豊益となる(のち富岡町→阿南市)。明治9年9戸46人。明治24年の「徴発物一覧」には「豊益新田」と見え戸数11、人口53。大正14年15世帯107人。昭和33年土地が買収され、同34年字吉田にて神崎製紙富岡工場が操業開始。
 現在は同工場のほか多くの関連企業が立地している。これらの社宅は隣接の畭町(はりちょう)にあり、地内には居住者は存在しない。竜王神社(祭神は和田津見命)がある。

 先述のとおり現在は工場の敷地内であるため、辰巳や淡島神社から集落があった方向を望んだのみ。工場周辺でも、集落を物語るものは見られなかった。

 


写真1 辰巳より豊益方面を望む


写真2 淡島神社より集落方向を望む(撮影場所から150mほど先が南端)

 

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