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◆辰巳(たつみ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「阿波富岡」(昭和26.3)を使用したものである

所在:阿南市辰巳町(たつみちょう)
地形図:阿波富岡/阿波富岡
形態:三角洲上に家屋が集まる
離村の背景:地域開発
標高:数m
訪問:2008年9月

 

 那賀(なか)川河口の三角洲上にある。古い地図では島の中央付近に建物の密集地があり、その周囲にも家屋が散在する。島の土地の多くは水田で、一部に桑畑もある。さらに南部には学校や煙突の記号がある。
 現在は辰巳工業団地として開発され、往時の面影は全く残っていない。島の入口付近には小さな社(水神社)(写真2)と墓地(江島墓地)があり、周囲の雰囲気とは一線を劃する。なお墓地には墓地移転の記念碑(平成2年建立)があり、その経緯が詳細に書かれている。これによると、昭和8年に那賀川改修工事に伴い元中島から辰巳に移転、のち工業用地造成のため現在地に移転している。
 地元の方の話では、島内だけで100軒以上の家があったという。稲作と漁撈が中心で、日雇い仕事で生活をしている人もいたそう。辰巳出身の方がよく自転車で来るそうだが、この時は会うことができなかった。
 なお墓地と神社を含む島の北西部、道路に沿った約1.0kmの区域は、旧那賀川町の中島(なかしま)の所属となる。

 市史によると、昭和42〜43年に用地買収が始まり、同45年買収完了、造成工事着工となる(同46年竣工)。手持ちの昭和40年代の地形図でも、既に全域が荒地となっている。
 また三角洲が形成され始めたのは室町時代頃と見られるという。江戸時代初期になると人が移
住し始めたが、大部分は芦が茂る耕作不能地であった。その後、横見(よこみ)村の人物「新兵衛」が開発を計画。天保6(1835)年、藩より開墾を認められる。出作人を集め開発を行っていたが、間もなく資金不足に陥り小松島の豪商井上家より資金を借り受ける。しかし天保14(1843)年、全ての土地は井上家に売り渡され、翌15年には正式に井上家が辰巳地区の開発者となる。この年、藩から正式に「辰巳新田」の名を与えられる。川と海に囲まれた低湿地という悪条件にもかかわらず、大地震や津波といった災害に見舞われながらも、堤防や灌漑施設を築き順調に耕作面積を増やした。この事業は江戸時代の間に終わることなく、明治に入っても続けられた。戦後にも食糧増産・引揚者の帰農のため東岸で大規模な干拓が行われ、昭和29年に干拓事業が完了した。
 なおHEYANEKO氏によると、当地にあった学校は富岡小学校辰巳分校(昭和39年閉校)。

 


写真1 辰巳島への入口付近


写真2 水神社

 

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