◆六軒茶屋(ろっけんぢゃや)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「山口」(昭和21.10)を使用したものである
所在:山口市上宇野令(かみうのれい)
地形図:山口/山口
形態:山中に家屋が集まる
標高:約350m
訪問:2023年1月
大字上宇野令の北部、一の坂(いちのさか)川(仁保(にほ)川支流)左岸側の山中にある。長門国の萩と周防国の防府三田尻(みたじり)とを結ぶ街道「萩往還」の道中にあり、茶屋や休憩施設である「建場(たてば)」が設けられていた。
以下は現地の説明板より。
一の坂御建場跡(六軒茶屋跡)
「お成り道」(参勤交代や領内巡視用の道)として整備された萩往還は一里ごとに一里塚が設けられ、各所に往還松が植えられていました。
また、藩主一行の通行に伴う各種の施設もつくられました。このうち「御建場」や「お茶屋」は比較的長時間休憩する際の施設でした。また「駕籠建場」は、見晴らしの良い場所で駕籠を降し、殿様一行が短時間休む場所として設けられていました。
往還の中間地点でかつ最大の難所であったここ六軒茶屋には「一の坂御建場」が置かれました。その設計図面(差図)が、山口県文書館に残されています。
この地に部分的に復元してある建物群の配置は、この設計図面を参考にしたもので、江戸時代のある時期の「一の坂御建場」を想定復元したものです。
六軒茶屋という地名はすでに江戸時代中頃にはでてきますが、宮野の八丁峠を越えて萩へ通じる新しい道ができたのちも、ここ六軒茶屋では民家の軒先を茶店にし、往来する旅人のよい休み場になっていました。
なお「一貫石」の近辺に、駕籠建場と呼ばれているところがありますが、ここにも駕籠建場が置かれたといわれています。
説明板には差図を元にした当時の建物配置の予想図と、昭和30年頃の家屋配置図が記されている(写真14)。建物のあった平坦部は段々になって街道の両側に並び、萩方面を向いて右側に4箇所、左側に2箇所。
このうち最も手前、現在便所がある平坦地(写真3)は、建物配置図には含まれていない。その広さから鑑みても、宅地であったとは考えにくい。
その上段、ベンチと東屋が設置されている場所(写真4)は「御供中腰掛休所」の跡で、立札には「ここは足軽と呼ばれた下級の武士たちが休息する場所として使われたところ」とある。差図には1棟の建物があるものの、昭和30年頃は無住地となっている。
さらにその上段(写真5)は「御側通り休所」の跡。立札には「藩主の道中にしたがった人たち(主として藩主の世話や警固をする人たち)が休息する場所として使われたところ」とある。差図には間取りが描かれた1棟の建物があり、昭和30年頃は藤井家の住居となっている。
その向かいの敷地には、旧屋敷の「主屋」「別棟座敷」「御駕籠建場」が柱と屋根で復元されている(写真6)。立札によると、主屋には「上の御煮立場」「当番の御手廻居所」が設けられ、別棟座敷は藩主が休息する部屋として、床が一段高くなった「御座間」が設けられていたという。昭和30年頃は伊藤家の住居。宅地の脇には伊藤家の墓地が見られ、現在でも管理が続けられている(写真6)。
その上段は、「御徒通り休所」の跡(写真9)。立札には「藩主の道中にしたがった武士たち(行列の先導をしたり藩主の警固にあたる人)が休息する場所として使われたところ」とある。また敷地の北側は「仮建」で、立札によると「ここは臨時の建物として「御馳走人」「御付廻り」「賄所」などが設けられまた土間には釜所が設けられ湯茶などがわかされたたところ」とある。差図には母屋の建物(休所)と4つに区切られた長方形の建物(仮建)が描かれ、昭和30年頃は山中家の住居となっている。
その向かいは「御家老休所」の跡(写真12)。立札には「家老職(藩の重臣)や上級の役人が休息する場所として使われたところ」とある。差図には1棟の建物(休所)が描かれ、昭和30年頃は無住地。
建物群跡の少し北の路傍にある石仏は三界万霊を供養するもののようで、基部には「三界萬…」「寛政元酉/三月吉日」とある。脇には石段が続き、何かの跡(写真16)と「旧道」と記された標柱(写真17)がある。旧道の標柱の周囲に道らしいものは見当たらず、その道筋は不明。
また県道下の旧街道も200mほど降りてみたが、顕著な遺構は確認できず。炭焼き窯の跡が見られたが、当地に関係するものだろうか(写真18)。
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