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◆立島(たつしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「久賀」(昭和21.8)を使用したものである

所在:周防大島町東安下庄(ひがしあげのしょう)
地形図:安下庄/久賀
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m〜10m
訪問:2021年12月

 

 周防大島の伊崎集落(東和町外入(とのにゅう)【現・周防大島町】)より、西に1.3qほどにある島。集落は島の東の浜付近にあった。
 資料『シマダス』によると、江戸時代中期から屋代島(やしろじま)(=周防大島町)の住民を中心に開拓が始まり、江戸時代後期には50戸以上の居住があったとのこと。昭和30年人口30人、同35年28人、同40年7人、同45年3人。同50年より1人となり、同60年無住となった(国勢調査)。現在は貸別荘地。なお平成4年には広島市在住の芸術家が分校の建物をアトリエとして利用していたという。

 東和町誌によると、地家室(じかむろ)(※)の名士・林氏が開拓に携わっていたといわれている。さらに
小泊(こどまり)(※)に伝わる別の伝承では、かつて伊予からの落人が小泊の正覚寺に侍者として居着き、その開墾地として寺領であった立島が与えられた。そのため立島には正覚寺の檀家が8軒あったという。
 橘町史によると、当地にあった
安下庄小学校立島分校は、昭和4年4月安下庄尋常高等小学校の分教場として設立。昭和39年3月閉校。
 なお東和町誌の記述より、かつては後の東和町に属していたことが窺える。橘町に属した時期は未確認。

 現地には海辺に別荘が1軒と小屋1棟のほか、浜から少し入った場所に最後の住民のものと思われる人家が1軒。ほか屋敷跡も散見された。平坦地の周囲は段々の農地跡になっている。時間の都合で詳細な探索はできなかったが、集落から南西の鞍部を越えた先にも農地跡があるよう。

※ 東和町の地名

 


写真1 島遠景(東側より撮影)

写真2 別荘と小屋

写真3 船溜まり

写真4 家屋

写真5 学校跡?

写真6 同

写真7 学校跡?にて

写真8 学校跡?付近の井戸

写真9 井戸脇の石柱。「立島青年團 大正十…」とある

写真10 電柱。札には「立島支」とある

写真11 屋敷跡

写真12 写真11の流し台。右にはポンプが見える

写真13 屋敷跡

写真14 浴槽

写真15 屋敷跡

写真16 瓦

写真17 農地跡

写真18 集落南西の鞍部付近

 

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