◆峠(たお?)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「萩」(昭和15)を使用したものである
所在:長門市三隅上(みすみかみ)
地形図:三隅中/萩
形態:鞍部付近に家屋が集まる
標高:約250m
訪問:2023年1月
大字上の北部、鎖峠(くさりだお/くさりとうげ:峠の名)付近にある。
資料『ふるさと文化 美須美』によると、藩政時代にはこの峠を「鎖板垰(くさりいただお)」といい、峠を中心に三隅領・三見(さんみ)領周辺を鎖板と呼んでいたという。
当地は萩と下関の赤間関とを結ぶ街道「赤間関往還」のうち「北道筋」の道中にあり、藩主の休憩所である本陣・御駕籠建場をはじめ、茶屋・口屋・一里塚・道松などの施設が設けられていたとのこと。駕籠建場とは一定の距離ごとに置かれた簡易な休憩所で、鎖板峠では三見領の往還の北側に設けられていた。また萩市史には、「この鎖板の駕籠建場には駕籠を置く切芝台二ヵ所のほか、簡素な茶屋・湯茶沸かし所・便所などの施設があった」とある。
「地下上申」(1728)の絵図には、鎖板に4戸(三隅村・三見村にそれぞれ2戸)の居住を記録。
当地にあった家々は以下のとおり。
・大崎家
「大崎家文書」には、大崎玄蕃の孫に当たる六郎右衛門が百姓として居住したことが記され、記録に残る最初の居住となっている(年代は不詳)。
長子の利右衛門は農家として家を継いだ。次子玄益は京で医学を修め、帰郷後は三隅の宗頭(むねとう)で医業を営んだ。その子玄清は医業で梨羽氏の家臣となり、その後も梨羽家に仕え、明治末期に転出している。
なお「六郎右衛門」は昭和初期に当地から萩に転出した大崎家の祖先と考えられているが、これを立証する資料は存在しない。
・糸賀家
寛永の頃、峠・日尾を含む宗頭が萩藩寄組の梨羽領となった。領有地には家臣が配属され、この頃糸賀氏(糸賀勘左衛門)が居住したとみられている。
当地には勘左衛門から安政年間死去の7代平左衛門までの墓と、明治期に死亡した2名の墓が現存する。
・岡部家
萩藩大組の岡部家2代真利が、寛文2(1666)年に開作地を賜り屋敷を鎖板に構えた(「岡部家文書」)。この開作地は前開作と呼ばれている。のち同家によって開かれた開作地は後開作と呼ばれ、1750年頃の完成とみられている。
岡部氏は初代利貞以来槍の名手で、藩主に槍の指南も行っていた。
屋敷跡の前には地蔵があるが、これは天明3(1783)年に江戸参覲中に死亡した6代正昭を供養したもの。
・佐々木家
佐々木氏については、天明年間(1871-79)以前の資料がなく居住の経緯は不明。藩政末期に往還筋の七曲口に出て商人になり財を成した。氏は佐々木高綱の流れを汲む家系といわれている。
墓は屋敷跡に現存。
・富岡家
佐々木家に隣接し、梨羽家臣の富岡家初代伝左衛門が寛政初期(1790年頃)に屋敷を構えた。明治10年代までの墓が現存し、この頃まで居住か。
・山本家
美祢の大嶺(おおみね)で豪商として栄えた。のち羽梨家に仕え萩に居住していたが、6代又兵衛盛之が文化年間(1804-18)に鎖板に住居を移した。盛之はこの地で死去し墓は鎖板共同墓地に現存。子の蕃雅は宗頭の中心部に移転。
なおこの一帯は日照と水に恵まれ、かつては広い耕地が開かれていた。昭和40年代まで耕作が行われていたという。
明治期、往還路が改修され県道に昇格したが、かつての往還と重なる部分は宗頭から鎖峠の間では峠付近の200mほど。現国道はほとんどこの県道を継承。しかし国道の改修や圃場整備のため、往時の原形をとどめているのは七曲八丁(約880mの区間)のみとなっている。
先の資料に記された略図を頼りに各家の屋敷跡を探したが、特定できたものは皆無。峠付近には現在でも耕作されている農地があるが、大崎家に由来するものだろうか。また国道沿いにある古い物置(写真4)も、いずれかの家の農地に由来するものだろう。また佐々木家・富岡家と思われる一帯は、1960年代の航空写真では農地と建物らしきものが見られる。しかし近年(平成30年以降?)になり残土処理場に造成され、往時の面影はほとんど見られない。
「前開作」は草地造成地(写真12)、後開作は畜舎となっている(写真13)。
なお昭和22年の航空写真時点で、農地はあるものの人家らしいものは見られず、離村は比較的早かったよう。
「角川」の小字一覧には「峠」が見られるが、ルビはなく読みは不明。
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