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◆八田原(はったばら)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「府中」(昭和21.11)を使用したものである

在:世羅町小谷(おたに)
地形図:木野山
/府中
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約200m(水面は約230m)
訪問:2013年5

 

 大字小谷の南部、芦田(あしだ)川沿いにある。現在は八田原ダムの人造湖(芦田湖)に水没。
 以下は資料『八田原懐古』より。

ダム建設により転出した家は門藤4・西山3・松原3・宮野3・新谷3・比羅岡2・岡本・亀山・中野下・丸山各1の計22戸
御中主神社(通称大霊権現社)が祀られたのは、寿永2(1183)年平教溢によるものと伝わる。昭和57年ダム建設に伴い現在地に移転
昭和38年、国鉄福塩(ふくえん)線の八田原駅が開設、平成元年廃止
小学校の沿革

 明治16  伊尾小学校の分教場設置。12月廃止
 明治20.7  伊尾尋常小学校の分教室設置
 明治40.10.7  分校となる(本文では以下「分教場」)
 明治44  伊尾尋常高等小学校八田原分校と改称
 昭和16  伊尾国民学校八田原分校と改称
 昭和22

 伊尾小学校八田原分校と改称

 昭和39.3.31  廃校


 なお水没記念碑の全文は以下のとおり。


 ここ、八田原・
井庄原・小谷の里は、昔日平家の落人が来住した里と伝える。
 この里の由来も、寿永の昔平教溢(のりみつ)
等が平家の旗を立てて前途を占い「旗立原」と名付け後に八田原と言い、また鎧兜を脱ぎ衣装を着替えたということで「衣装原」と名付け後に井庄原と言い、いくら遡っても細長い谷で「小谷」と名付けたと伝える。
 国は、昭和44年に治水・利水を目的としたダム建設を計画し、民家四十八戸、山紫水明のこの山峡には猪垣・甌穴等の景観があり、四季折々の山野の美しさを楽しませたこの里が湖底に沈み、住み慣れた墳墓の地を失うことに涙するも、時代の流れには如何ともしがたく昭和五十七年三月にこの里を離れることとなった。
 八田原、井庄原、小谷集落の往時を偲び、水没住民の将来の幸福を願って記念碑を建設し、ここに世帯名を記し長くのそ名を留める。


 現在集落は完全に水没しているが、周囲にはキャンプ場や公園等の施設がある。また移設されたと思われる神社(御中主神社および大霊社)と墓地が(写真3)、かつての集落から北側の湖畔に所在。先述の記念碑には気付かなかった。

 


写真1 集落付近(奥は堰堤)

写真2 八田原大橋

写真3 神社社殿と墓地

 

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