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◆都賀尾(つがお)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「加計」(昭和22.2)を使用したものである

在:安芸太田町加計 (かけ)字都賀尾
地形図:坪野
/加計
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約470〜570m
訪問:2013年5

 

 大字加計の東部、丁(よおろ・よろ)川左岸の山中にある。
 以下は資料『わがふるさと都賀尾』より要点の抜粋。

明治13年、植田屋・上河内・部屋・胡屋・丸屋・田中・中屋・上野屋・岩国屋・藤岡屋・枡屋・吉光・光田屋・竹之内・岩田屋の15戸。昭和35年、植田屋・上河内・上丸・丸屋・光田屋の5戸。ほか下西・対馬屋・上東・泉屋・本家などといった家もあった
高度成長期の頃から薪炭の需要の減少・平地との利便性の格差などに起因し、雪崩れるように離村が進む。昭和38年の豪雪も離村に拍車をかけた。戦後には7軒であったが、昭和29年に1軒、同34年に1軒、同36年に1軒、同38年に3軒が相次いで転出。昭和39年12月、最後の1軒が離村
佐々木姓が多い
主な産業は農業(田・畑)と炭焼き。元灰作り(ホク焼き)も農閑期に盛んに行われていた。元灰(ホク)は麻殻の炭のことで、懐炉灰の原料となる。農作物は米・麦・雑穀・サツマイモ・豆類・蒟蒻などのほか麻、僅かにコウゾ。日当たりが良く作物の生育は良好であったが、畑は傾斜地のため土の流出や道具の転落を防ぐ工夫や努力がなされていた。一時期は養蚕も行われていたが、高冷地のため振るわず
電気の導入は大正後期
度重なる陳情にも拘らず、離村まで道路が開通することはなかった。物資の運搬は人力で、谷沿いの坂道を往復

 また 町史によると、明治5年の「壬申戸籍」には佐々木家11戸、その他2戸の計13戸があったとのこと。昭和35年5戸28人。当地にあった家々の離村状況は以下のとおり。

  屋号 離村年 転出先
1 上東 佐々木 明治30 島根県津和野町(当時の木部村)
2 中野屋 明治37、8頃 加計
3 光町 明治40 北海道、のち加計
4 桝屋 藤岡 大正7 加計
5 田中 佐々木 大正7、8頃 加計、のち広島市
6 吉光 吉田 昭和8、9頃 加計
7 中屋 (記載なし) 昭和10頃? (記載なし)
8 岩田屋 佐々木 昭和10頃 加計
9 岩国屋 加計
10 胡屋 昭和15、6年頃 豊平町【現・北広島町】
11 竹の内 昭和19頃 東京都
12 下西 昭和29 加計
13 上野屋 昭和34 広島市、のち加計
14 丸屋 昭和35 加計、のち広島市
15 光田屋 昭和38 広島市
16 上丸 昭和39
17 上河内 加計
18 植田屋


 現在、集落まで林道が開通し車輛での訪問が可能。林道沿いには別荘と思われる新しい家屋が建ち、付近には遷座された御神体(写真1)も置かれている。地名を記した標柱には『ここは、わがふるさと「都賀尾」』とあり(写真2)、また家屋の周囲には石臼・鉢・瓦等の多くの遺品が並べられ、かつての生活が偲ばれる。
 この家屋は集落の最上部付近に位置し、ここから谷に沿って下ると農地跡や屋敷跡が複数見られる。集落の中ほどで、大歳神社跡(写真9)を確認。往時の登り口(川登東集落)には都賀尾口バス停がある(写真10)。

 


写真1 御神体を収めた小祠

写真2 標柱

写真3 屋敷跡にて

写真4 屋敷跡にて

写真5 屋敷跡の一部

写真6 写真5納屋

写真7 屋敷跡

写真8 農地跡

写真9 大歳神社跡

(写真10 都賀尾バス停)
(2022年撮影)

 

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