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◆生野島(いくのじま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三津」(昭和22.3)を使用したものである

所在:大崎上島町東野(ひがしの)
地形図:白水/三津
形態:地区別の項目参照
標高:地区別の項目参照
訪問:2022年11月

 

 大崎上島の鮴崎(めばるざき)港より、500mほど海を挟んで向かいにある島。
 住民からの聞き取りによると、主に南部の福浦(ふくうら)・西部のくさの浦(―うら)・北部の月ノ浦(つきのうら)の3地区からなり、東部でも「かあが」(※1)と呼ばれる海沿いの一角に
若干の居住があったとのこと。戦前の居住者は多くはなかったものの、戦後の開拓で島の戸数が急増した。

※1 表記については、聞き取りでは不確かながら「貝賀」の可能性が指摘された。資料『生野島物語』では「かあが」、『うつりゆくとき ふるさとひがしのシリーズ』では、「貝香」で一貫。ここでは「かあが」とした

 資料『生野島物語』および『うつりゆくとき ふるさとひがしのシリーズ』によると、島内は牧草に富み江戸時代(※2)より藩の放牧地として利用されたという。「馬島」の別名もあった。
 放牧時代には山番が居住し、『生野島物語』によると
椎実(しいのみ)(福浦の一部)・かあが・馬取(島の東部)・七谷(ななたに)(月ノ浦の一部)・鹿老渡(かろうと)(くさの浦の一部)に住み、耕作地(民有)も1町歩程度与えられていたという。『うつりゆくとき〜』によると、文化5(1808)年にかあが・椎実・七谷の3箇所に居住許可とある。明治5年4戸21人(かあが・七谷・椎実・鹿老渡)。

※2 『うつりゆくとき〜』では、放牧の開始は承応3(1654)年に藩の馬の飼育場に指定された頃からではないかと推測している

・開拓
 昭和4年4月、いさぎ谷(福浦の一部)の約13町歩が柑橘畑の造成地として国から借り入れられ、開墾が始まった(福浦の項目にて後述)。
 終戦後の昭和21年、生野島が県営開拓地に指定される。近隣の町村から入植者を募集したところ、東野村・中野村・大崎南村・木ノ江町・御手洗町・久友村・竹原町(※3)の8箇町村より応募があった。計123戸(『生野島物語』)、あるいは121戸(『うつりゆくとき〜』)。昭和30年の記録によると、作物は甘藷・馬鈴薯・みかん・大根・タバコ・すいか・裸麦などとなっており、緬羊や鶏といった家畜も導入されている。
 昭和22年7月、開拓農事実行組合設立。同23年6月、生野島開拓農協となる。同43年、東野町農協に合併。
 昭和42年には島の東部の国有林も払い下げられ、パイロット事業によりみかんの果樹園が造成された。

※3 東野・中野・大崎南・木ノ江は大崎上島、御手洗・久友は、大崎下島、竹原は現在の竹原市にあった自治体

・ライフライン等
 昭和26年5月、中国電力による送電開始。101戸全戸、125灯が点灯。
 昭和32年12月、開拓農協に公衆電話1台設置。同41年、島内に電話開通。同42年2月、月ノ浦土井田氏宅・くさの浦小泉氏宅に公衆電話設置。同46年4月、電話がダイヤル式となる。この頃島内で電話のある家は33戸。同51年9月(『うつりゆくとき〜』)もしくは同53年9月(『生野島物語』)、くさの浦‐契島(ちぎりしま)間に電話用海底電線敷設。
 昭和40年6月、開拓農協管理による簡易水道完成。同50年10月、安芸灘地域水道用水供給事業により送水開始。同59年5月、東部簡易水道生野島調整池完成。
 昭和25年1月、保健婦1名が島に赴任。同32年、無医地区に指定。同38年、保健所の「斉生丸」による巡回診療が開始(年4回)。同55年4月、救急艇「いくの」が配置された。
 昭和56年、福浦に消防倉庫建設。消防自動車が配置された。

・航路
 昭和23年9月、大崎上島中野の久保氏により、
櫓船による福浦‐盛谷間の渡船が開始。同27年9月、発動機船を導入。
 昭和35年1月、村営の渡船「第一生野丸」(木造船)就航。同38年1月、「第二生野丸」(鋼船)就航。
 昭和43年4月、スクールボート「さざなみ」就航。白水‐福浦‐契島間。
 昭和62年5月、フェリー「さざなみ」就航。

・道路
 昭和27年4月、福浦‐かんね(くさの浦)間に道路が開通。同33年3月、島の中央から西を一周する循環道路開通。

・戸口

年度 昭和25 昭和30 昭和35 昭和40 昭和45 昭和50 昭和55 昭和60 平成2 平成7
戸数 46 67 62 66 60 47 44 41 36 34
人口 180 269 227 272 193 120 94 76 64 55

 

 

≪福浦≫



※ 明色部(凡その範囲であり、必ずしも正確に表しているものではない)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三津」(昭和22.3)を加工し使用したものである

形態:海沿いから谷沿いにかけて家屋が集まる
標高:数m〜約40m

 

 住民によると、現在は金子(かねこ)家・木村(きむら)家の2戸が在住。地区の範囲は、聞き取りにより概ね上の地図画像で示すものであるよう。
 船着場のある谷沿いとその支流(いさぎ谷)に家屋が集中しているが、小さな入り江やその谷沿いにも家屋が散在する。

 『生野島物語』によると、いさぎ谷の開拓は昭和初期。大崎下島で柑橘類の栽培が奨励され、東野村でも生野島の国有林払い下げ運動が起こされた。昭和4年4月になり、ようやくいさぎ谷の約13町歩が柑橘畑の造成地として国から借り入れられ、開墾が始まった。入植者は、京都の僧侶・足利淨圓(あしかが・じょうえん)師をはじめ京都組として陶芸家・迦洞無坪(かとう・むへい)、画家・甲斐虎山、宗教家・岩本月州、俵、井上、木田などの各氏。大長村(※4)出身の飛騨氏を責任者として営農を委託された。ほか東野村から桝本・川本・蒔田・高尾の各氏、大長村から飛騨・越智・高橋の各氏らが入植し、柑橘類をはじめ他の農作物を栽培したよう。島内における柑橘栽培は、これらの人々が嚆矢であった。
 
戦後の開拓では、中野村・大長村・東野村の入植者が開拓に当たっている。
 なおいさぎ谷にある「平和会館」は、昭和24年8月28日落成。
 また「福浦」の呼び名は、集落のある入り江そのものの名称でもある。

 港の付近には「足利浄円先生之碑」があり(写真3)、同氏は島民のため開墾や教導に尽力していたことが窺える。
 
以下はその全文(字体や仮名遣いの新旧が混淆しているが、原文のまま)。


 浄圓師略傳

師ハ明治十一年本県芦品郡有地村正滿寺(※5)ニ生レ、昭和三十五年八十三才ニシテ逝去 幼ニシテ父母ニ死別学徳高キ祖父足利義山師ニ育テラレ其の薫陶ヲ受ク 仏教大学卒業後渡米開教精励(※6)十餘年 後京都ニ同朋舎(※7)ヲ興シ専ラ仏書ヲ刊行其著書亦甚多シ仏教誌同朋並ニ自照等皆之ヨリ出ヅ 昭和七年縁有リ生野島ニ来リ同朋園ヲ開イテ柑橘栽培ヲ創始シ從業青年子弟ヲシテ仏教即生活ノ理ヲ働キナガラ体得セシム 其間中国ニ渡リ彼国ノ仏教遺蹟ヲ探究シ彼我ノ親善ト佛堂宣流ノ力ヲ致ス 同二十四年平和会舘落成之ニ聖徳太子ノ像ヲ安置シ毎月開講スルニ及ンデ其碩徳ヲ慕ヒテ集フ念仏行者数知レズ又各地各層ノ懇請ニヨリ行脚講演甚多忙 斯クテ師ノ一生ハ衆生ノ為メ席ノ温マル暇ナクサナガラ活佛ヲ偲バシム
茲ニ全国ノ同志相謀リ碑ヲ建テ其偉徳ヲ後世ニ傳ヘントス

 昭和三十八年三月□日(※8)


 なお『生野島物語』によると、師は昭和8年にいさぎ谷に同朋舎を建築、昭和20年京都より疎開し、同朋舎に定住。昭和24年9月より、毎月講演の「やわらぎ会」を開講。昭和30年12月26日帰郷。昭和35年5月、京都にて逝去。『うつりゆくとき〜』によると、やわらぎ会は大学教授3名により昭和38年8月再開し、15年間続けられたという。
 また陶芸家の迦洞無坪も、いさぎ谷に書院造の「阿伊庵」を築造し昭和10年より居住。昭和22年3月31日に逝去した。『うつりゆくとき〜』によると、俳人の種田山頭火が昭和10年12月・同11年7月にここに逗留している。

 港には現在使用されていない大きな建物があるが(写真1)、これはマリーン生野によるアワビの養殖場で、平成13年閉鎖(『シマダス』)。
 港の隣の谷(椎実)にある堂宇
観音堂で、文化3(1808)年8月創建(写真14)。近年では昭和元年3月・同46年10月に改修されている。

※4 大崎下島にあった自治体
※5 本文では「正」は異体字。匚の中に点が2つ
※6 本文では「励」の左側のみ
※7 現在も印刷会社として京都に存続
※8 □は空白

 


写真1 船着場。桟橋そばの建物は待合所。横の大きな建物はアワビの養殖施設

写真2 フェリー待合所

写真3 「足利浄円先生之碑」(左)と「天鼓」の碑(右)

写真4 消防倉庫。「第九部消防格納庫」とある

写真5 集落風景

写真6 谷沿いの建物

写真7 いさぎ谷入口の建物

写真8 集落風景(いさぎ谷)

写真9 平和会館(同)

写真10 集落風景(同)

写真11 現住家屋付近からの風景

写真12 管理家屋(同)

写真13 地区西部の家屋

写真14 観音堂(椎実にて)

写真15 観音堂脇の祠

写真16 観音堂そばの墓

写真17 観音浦

写真18 観音浦沿いの家屋

写真19 建物跡(写真18裏手)

 

≪くさの浦(草の浦)≫



※ 明色部(凡その範囲であり、必ずしも正確に表しているものではない)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三津」(昭和22.3)を加工し使用したものである

形態:海沿いから谷沿いにかけて家屋が集まる
標高:数m〜約20m

 

 福浦で伺った話によると、現在は西野(にしの)家2戸・池森(いけもり)家・福本(ふくもと)家の計4戸が在住。地区の範囲は、聞き取りにより概ね上の地図画像で示すものであるよう。また住民によると、往時は11、2戸ほど。東野小学校および中学校の生野島分校も当地にあったという。

 資料『生野島物語』によると、戦後の開拓では久友村・御手洗町・竹原町が開拓に当たっている。
 分校は、小学校・中学校とも昭和23年開校。小学校は昭和39年閉校。中学校は数年で廃止されている(※9)。閉校後の校舎は、昭和40年にくさの浦および月ノ浦の集会所となった。
 昭和11年には、昭和鉱業株式会社契島製錬所がくさの浦へ社宅80戸を造り、電灯設備・水道を敷設したという。
 また「くさの浦」の呼び名は、集落のある入り江そのものの名称でもある。

 聞き取りでは学校があったのは海沿い平坦部分の北端とのことだが、広場と木造の建物がある場所がそれだろうか(写真21)。
 南部の「かんね」(※10)には昭和55年に開業した野営場があったが、これは未訪問。また昭和20年にかんねに海軍の農兵隊が駐屯したため、「海軍谷」の名が残されている。
 北部の鹿老渡は、現在契島製錬所から排出される残滓の堆積場となっている。かつては農地であり、嘉永元(1848)年に開拓された。
 なお先述の社宅について、80戸もの住居がどこに存在していたのかは未確認。

 表記については、地形図では「くさの浦」であり見出しはこれに拠ったが、資料をはじめ「草の浦」も多く用いられている。

※9 『生野島物語』には閉校の記述なし。『うつりゆくとき〜』では「三年間で廃止」、『シマダス』では昭和29年閉校とある
※10 『うつりゆくとき〜』では「カンネー」の表記

 


写真20 集落風景(くさの浦)

写真21 学校跡付近?(同)

写真22 集落風景(同)

(写真23 高みより望む契島)

写真24 建物(かんね)

写真25 谷沿いの建物(同)

写真26 墓と畑(同)

写真27 堆積場の船着場(鹿老渡)

写真28 鉱滓(同)

 

≪月ノ浦≫



※ 明色部(凡その範囲であり、必ずしも正確に表しているものではない)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三津」(昭和22.3)を加工し使用したものである

形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m〜10数m

 

 福浦で伺った話によると、10数年ほど前に山科(やましな)家が転出し、無住となったとのこと。地区の範囲は、聞き取りにより概ね上の地図画像で示すものであるよう。

 資料『生野島物語』によると、戦後の開拓では東野村・大崎南村・中野村・東野村・木ノ江町が開拓に当たっている。
 また「月ノ浦」の呼び名は、集落のある湾そのものの名称でもある。

 現地には廃屋が数棟残り、最後の住民が住んでいたと思われる家屋も荒廃が進みつつある。

 


写真29 廃屋

写真30 廃屋

写真31 浜の風景。右に延びる石積みは波止場(写真32)

写真32 波止場

写真33 廃屋

写真34 家屋

写真35 海沿いの石垣と廃屋

写真36 写真34の廃屋

写真37 廃屋

写真38 集落から望む二子島

(写真39 福浦‐月ノ浦間の案内看板。直進方向に「月の浦」と見える)

 

≪東部地域≫

形態:海沿いに家屋が少数集まる
標高:数m

 

 先述の各地域を除いた地域。
 福浦で伺った話によると、「かあが」に藤原(ふじわら)家・松葉(まつば)家の2戸が居住していたという。

 資料『生野島物語』によると、主な地名は南側より「小かあが」「大かあが」「えのき迫」「大馬取」「小馬取」(画像1-3)。
 戦後の開拓では、南側の一部で東野村が開拓に当たっている。また残部は後年のパイロット事業の開拓地となった。
 大正初期にはかあがに製材所ができ、昭和22年には小馬取に日本樟脳株式会社生野島工場が操業を開始している。昭和57年、自然休養村事業により、えのき迫にキャンプ用のキャビンや管理センター等が開設。

 このうち訪問は居住があったという「大かあが」と自然休養村の管理センターのみ。大かあがでは倒潰家屋が1軒のほか、煉瓦造りの煙突(写真44)が見られた。これは先述の製材所の煙突で、『うつりゆくとき〜』にも写真が掲載されている。

 


画像1 かあが(明色部)。煙突の記号がある付近が大かあが

※ 以降の地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三津」(昭和22.3)を加工し使用したものである


画像2 えのき迫(明色部)


画像3 馬取(明色部)。南が大馬取、北が小馬取


写真40 浜の風景(以下大かあが)。中央に小さな波止場が見える

写真41 波止場から続く宅地入口

写真42 倒潰家屋

写真43 船溜まり

写真44 煙突 

写真45 自然休養村管理棟(えのき迫)

 

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