◆生野島(いくのじま)
所在:大崎上島町東野(ひがしの)
大崎上島の鮴崎(めばるざき)港より、500mほど海を挟んで向かいにある島。 ※1 表記については、聞き取りでは不確かながら「貝賀」の可能性が指摘された。資料『生野島物語』では「かあが」、『うつりゆくとき ふるさとひがしのシリーズ』では、「貝香」で一貫。ここでは「かあが」とした 資料『生野島物語』および『うつりゆくとき ふるさとひがしのシリーズ』によると、島内は牧草に富み江戸時代(※2)より藩の放牧地として利用されたという。「馬島」の別名もあった。 ※2 『うつりゆくとき〜』では、放牧の開始は承応3(1654)年に藩の馬の飼育場に指定された頃からではないかと推測している ・開拓 ※3 東野・中野・大崎南・木ノ江は大崎上島、御手洗・久友は、大崎下島、竹原は現在の竹原市にあった自治体 ・ライフライン等 ・航路 ・道路 ・戸口
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≪福浦≫
形態:海沿いから谷沿いにかけて家屋が集まる
住民によると、現在は金子(かねこ)家・木村(きむら)家の2戸が在住。地区の範囲は、聞き取りにより概ね上の地図画像で示すものであるよう。 『生野島物語』によると、いさぎ谷の開拓は昭和初期。大崎下島で柑橘類の栽培が奨励され、東野村でも生野島の国有林払い下げ運動が起こされた。昭和4年4月になり、ようやくいさぎ谷の約13町歩が柑橘畑の造成地として国から借り入れられ、開墾が始まった。入植者は、京都の僧侶・足利淨圓(あしかが・じょうえん)師をはじめ京都組として陶芸家・迦洞無坪(かとう・むへい)、画家・甲斐虎山、宗教家・岩本月州、俵、井上、木田などの各氏。大長村(※4)出身の飛騨氏を責任者として営農を委託された。ほか東野村から桝本・川本・蒔田・高尾の各氏、大長村から飛騨・越智・高橋の各氏らが入植し、柑橘類をはじめ他の農作物を栽培したよう。島内における柑橘栽培は、これらの人々が嚆矢であった。 港の付近には「足利浄円先生之碑」があり(写真3)、同氏は島民のため開墾や教導に尽力していたことが窺える。
師ハ明治十一年本県芦品郡有地村正滿寺(※5)ニ生レ、昭和三十五年八十三才ニシテ逝去 幼ニシテ父母ニ死別学徳高キ祖父足利義山師ニ育テラレ其の薫陶ヲ受ク 仏教大学卒業後渡米開教精励(※6)十餘年 後京都ニ同朋舎(※7)ヲ興シ専ラ仏書ヲ刊行其著書亦甚多シ仏教誌同朋並ニ自照等皆之ヨリ出ヅ 昭和七年縁有リ生野島ニ来リ同朋園ヲ開イテ柑橘栽培ヲ創始シ從業青年子弟ヲシテ仏教即生活ノ理ヲ働キナガラ体得セシム 其間中国ニ渡リ彼国ノ仏教遺蹟ヲ探究シ彼我ノ親善ト佛堂宣流ノ力ヲ致ス 同二十四年平和会舘落成之ニ聖徳太子ノ像ヲ安置シ毎月開講スルニ及ンデ其碩徳ヲ慕ヒテ集フ念仏行者数知レズ又各地各層ノ懇請ニヨリ行脚講演甚多忙 斯クテ師ノ一生ハ衆生ノ為メ席ノ温マル暇ナクサナガラ活佛ヲ偲バシム 昭和三十八年三月□日(※8)
港には現在使用されていない大きな建物があるが(写真1)、これはマリーン生野によるアワビの養殖場で、平成13年閉鎖(『シマダス』)。 ※4 大崎下島にあった自治体 |
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写真1 船着場。桟橋そばの建物は待合所。横の大きな建物はアワビの養殖施設 |
写真2 フェリー待合所 |
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写真3 「足利浄円先生之碑」(左)と「天鼓」の碑(右) |
写真4 消防倉庫。「第九部消防格納庫」とある |
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写真5 集落風景 |
写真6 谷沿いの建物 |
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写真7 いさぎ谷入口の建物 |
写真8 集落風景(いさぎ谷) |
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写真9 平和会館(同) |
写真10 集落風景(同) |
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写真11 現住家屋付近からの風景 |
写真12 管理家屋(同) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真13 地区西部の家屋 |
写真14 観音堂(椎実にて) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真15 観音堂脇の祠 |
写真16 観音堂そばの墓 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真17 観音浦 |
写真18 観音浦沿いの家屋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真19 建物跡(写真18裏手) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
≪くさの浦(草の浦)≫
形態:海沿いから谷沿いにかけて家屋が集まる
福浦で伺った話によると、現在は西野(にしの)家2戸・池森(いけもり)家・福本(ふくもと)家の計4戸が在住。地区の範囲は、聞き取りにより概ね上の地図画像で示すものであるよう。また住民によると、往時は11、2戸ほど。東野小学校および中学校の生野島分校も当地にあったという。 資料『生野島物語』によると、戦後の開拓では久友村・御手洗町・竹原町が開拓に当たっている。 聞き取りでは学校があったのは海沿い平坦部分の北端とのことだが、広場と木造の建物がある場所がそれだろうか(写真21)。 表記については、地形図では「くさの浦」であり見出しはこれに拠ったが、資料をはじめ「草の浦」も多く用いられている。 ※9 『生野島物語』には閉校の記述なし。『うつりゆくとき〜』では「三年間で廃止」、『シマダス』では昭和29年閉校とある
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写真20 集落風景(くさの浦) |
写真21 学校跡付近?(同) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真22 集落風景(同) |
(写真23 高みより望む契島) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真24 建物(かんね) |
写真25 谷沿いの建物(同) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真26 墓と畑(同) |
写真27 堆積場の船着場(鹿老渡) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真28 鉱滓(同) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
≪月ノ浦≫
形態:海沿いに家屋が集まる
福浦で伺った話によると、10数年ほど前に山科(やましな)家が転出し、無住となったとのこと。地区の範囲は、聞き取りにより概ね上の地図画像で示すものであるよう。 資料『生野島物語』によると、戦後の開拓では東野村・大崎南村・中野村・東野村・木ノ江町が開拓に当たっている。 現地には廃屋が数棟残り、最後の住民が住んでいたと思われる家屋も荒廃が進みつつある。
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写真29 廃屋 |
写真30 廃屋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真31 浜の風景。右に延びる石積みは波止場(写真32) |
写真32 波止場 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真33 廃屋 |
写真34 家屋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真35 海沿いの石垣と廃屋 |
写真36 写真34の廃屋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真37 廃屋 |
写真38 集落から望む二子島 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
(写真39 福浦‐月ノ浦間の案内看板。直進方向に「月の浦」と見える) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
≪東部地域≫ 形態:海沿いに家屋が少数集まる
先述の各地域を除いた地域。 資料『生野島物語』によると、主な地名は南側より「小かあが」「大かあが」「えのき迫」「大馬取」「小馬取」(画像1-3)。 このうち訪問は居住があったという「大かあが」と自然休養村の管理センターのみ。大かあがでは倒潰家屋が1軒のほか、煉瓦造りの煙突(写真44)が見られた。これは先述の製材所の煙突で、『うつりゆくとき〜』にも写真が掲載されている。
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※ 以降の地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三津」(昭和22.3)を加工し使用したものである |
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写真40 浜の風景(以下大かあが)。中央に小さな波止場が見える | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真41 波止場から続く宅地入口 |
写真42 倒潰家屋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真43 船溜まり |
写真44 煙突 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
写真45 自然休養村管理棟(えのき迫) |