戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆鶴島(つるじま)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「播州赤穗」(昭和35.9)を使用したものである

所在:備前市日生町日生(ひなせちょう―)
地形図:日生/播州赤穂
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:数m〜約10m
訪問:2021年11月

 

 日生の中心部より南東およそ6qにある島。キリシタン流刑地として知られる。
 資料『シマダス』および町誌によると、江戸時代までは無人島であったが、明治2年12月に長崎県浦上(うらかみ)(※)より弾圧されたキリシタン117人が岡山での拘束を経て同3年に流されたという。キリシタンたちは狭い長屋に押し込まれ、空腹の中での開墾と改宗を強いられたが、禁教令が廃止され明治6年4月に放免。多くの者は同年5月浦上に帰還したが、一部は日生に残って居住したともいわれる。また
この時までに18人が死亡し、島に埋葬された(うち改宗者5名)。
 開墾地では麦・大豆・小豆・甘藷などが作られていたが、すべて県を通じ国へ納入され、住民はこれらを口にすることはできなかった。
 拷問に耐え兼ね改宗した者も、開拓の要員等の理由で引き続き島内に居住させられた。各自の家や畑が与えられたり自由に出歩くことができたりとある程度良い暮らしができたが、格差を明らかにすることにより他の者へ改宗を促すという面もあった。
 大正時代まで度々の所有者の変遷を経たのち農林省が買収、その後総社市の前田氏が払い下げを受け、同氏が昭和19年頃に島に渡って開墾に当たった。町誌の刊行当時(昭和47年)では、同族の2戸5人が居住、農業の傍らみかん園を経営。
 昭和35年人口9人。風力発電と井戸水で生活。平成2年に民宿を営んでいた1戸が島を離れ、無住となった。
 
昭和41年8月、墓地に岡山県文化財保護探勝会により白木の十字架が建てられた。

※ 現在の長崎市の一部

 上陸は島の北部より。ここには民宿もしくは観光農園が営まれていた名残と思われる便所が設けられ、浜の少し奥には人家のような建物の跡がある。ここからキリシタン墓地までは道がきれいに整備され、途中には井戸・顕彰碑(米軍兵士の遺体を鄭重に供養した住民の女性を称えたもの。写真7)・「坂本真楽配流之地」(写真8)の碑が見られる。また脇道を登った先、島の頂上からやや下がった所には「改宗の祠」がある(写真10)。墓地には自然石の墓が並び、「浦上殉教者碑」(写真13)・先述の十字架(写真14)・マリア像が置かれている。時折供養が行われるようで、船主の話では何度かこれらの人々を送迎しているという。道が整備されているのもこのためか。
 比較的整備された枝道が西に向かって延びているが、降りた先は民宿跡の一帯と思われ、磯には一部の建物が残る(写真20)。
 当初この付近を集落と誤認していたため、さらに南を探索。実際の集落内の探索は短時間となってしまったが、廃屋や井戸を確認することができた。なおこの一帯にキリシタンが押し込まれた長屋があったとされる。

 以下は浦上殉教者碑の「由来」の碑文。

 一八六九年(明治元年)より約五年間 いわゆる浦上四番崩れの為 長崎浦上のキリシタン三三八〇名は 名古屋以西の二十藩に総配流
 明治二年十二月 本原郷 平辻の信者計一一七名岡山に流刑
 はじめ岡山松寿寺に約十ヶ月囚閉 拷問の後 総員ここ鶴島に移され 土地の開拓に從事
 すしづめの長屋 重労仂 空腹との戦い それに改心を迫る拷問のはげしさ その為半数以上が改心 然し岩永マキ(浦上十字会創立者)のように強く信仰に生きた者も多数いた
 ここに 私達子孫なわこも屋一統 及び 有志者一同感謝と償いの心をこめて記念碑を建立するものである
 一九七一年五月十六日

 


写真1 島遠景(北側より撮影)

写真2 桟橋より北の浜を望む(右は便所、左は写真3)

写真3 北の浜付近の平坦地

写真4 浜からの道

写真5 建物跡(屋敷跡?)

写真6 井戸

写真7 碑

写真8 碑

写真9 写真10への石段

写真10 改宗の祠

写真11 道沿いの便所

写真12 墓地

写真13 殉教者碑

写真14 十字架

写真15 炊爨設備?(観光の名残か)

写真16 物置小屋

写真17 倉庫

写真18 農耕機械

写真19 何かの遺構

写真20 廃墟

写真21 西の浜の船着場

写真22 西の浜からの登り口

写真23 湧水地

写真24 井戸

写真25 廃屋

写真26 井戸

写真27 廃車

写真28 西の浜の遠景

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ