戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆笹ヶ谷(ささがたに)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「須佐」(昭和22)を使用したものである

所在:津和野町内美(ないみ)
地形図:長門新市/須佐
形態:谷沿いに家屋や施設が多数集まる
標高:約330m〜
訪問:2015年8月

 

 大字内美の北西部、高野川(津和野川支流)の上流部にある。標高約482mの砥石山のすぐ南。笹ヶ谷鉱山に伴う集落。
 以下は『近代の津和野』より笹ヶ谷鉱山の概要。

 主に銅、ほか亜砒酸を産出。開坑は弘安の頃と伝わる。以来細々と採掘が行われ、1600年代初期に堀氏(※)による経営となる(途中1716-35年では幕府の直営)。明治に入り火薬の導入・工部省技師の招聘・各種設備の設置などの革新により発展し、明治20年代には従業員1,500名、戸数500余戸、人口2,000人に及んだ。明治30年代には一時落ち込むものの、40年代には新たな鉱床の発見により状況は恢復。大正に入り第一次世界大戦に伴う銅の軍需により採掘量が増加するものの、同7年には鉱業界は不況となる。同年堀鉱業株式会社を設立し、笹ヶ谷鉱山を除く35の鉱山を漸次整理。同9年笹ヶ谷鉱山は同社に引き継がれる。のち日本鉱業株式会社に引き継がれ(堀鉱業は昭和3年解散)亜砒酸を製造したが、これも昭和24年に廃止。昭和26年村田氏により再び採掘が行われ何度か経営者の変更を経て、昭和46年吉岡鉱業を最後に閉山。
 なお亜砒酸は、江戸時代には石見一円から集められたものを「石見銀山鼠とり」と謳い、殺鼠剤および牛馬のシラミ取り剤として売られていた。明治に入ると欧米より薬剤が輸入され需要がほとんどなくなるが、大正初めにアメリカにおいて綿農場の害虫駆除に亜砒酸が用いられ、需要が激増。当鉱山では大正7年より小野村(現在の益田市)の村上氏が粗鉱を買い受け製造を開始。大正9年には量産も軌道に乗り、笹ヶ谷鉱山は一大亜砒酸鉱山として知られるほどになる。大正10年には市価が暴落するが、需要の前途は有望とし同年堀鉱業株式会社が自家製造を開始(のち日本鉱業株式会社が引き継ぐ)。

※ 同家は江戸時代初期より銅山の経営により富を得ており、こと明治期の15代堀藤十郎(礼造)は他府県にも進出し一時は「中国の銅山王」とも呼ばれた

 当地への道は中川(なかがわ)方面及び内美の野中方面から通じているが、内美側より訪問。林道に入り1.2kmほど登ると堰堤が見られるが、鉱害防止に伴う設備であるよう(写真1)。やがて谷の両岸に南北に細長い平坦地が見え始め、この辺りが集落跡。建物の類は皆無で、痕跡も探せばいくらか見つかる程度。谷に架かる橋は2箇所(写真2・12)。右岸側の一角では灯籠の一部ような物も見られ(写真31)、すぐ上には何かを祀っていたような雰囲気もある。最上部の主要施設群の跡は大きく整地されているようで、痕跡はないと思われる。
 なお鉱山関係の地区としては豊稼(とよか)の石ヶ谷なども含まれるが、訪問は笹ヶ谷集落のみ。

 


写真1 沈澱池? 上流側より

写真2 橋

写真3 建物群跡(以下左岸下流側より)


写真4 遺構


写真5 建物跡の石積み

写真6 遺構

写真7 石積み

写真8 集落内の道

写真9 遺構

写真10 遺構

写真11 遺構

写真12 橋

写真13 集落内の道

写真14 穴状の遺構

写真15 道(左)と石積み(右)

写真16 施設跡(以下右岸下流側より)

写真17 「笹ヶ谷鉱山 鉱害防止工事施工地」とある

写真18 遺構

写真19 石垣

写真20 遺構

写真21 遺構

写真22 遺構

写真23 遺構

写真24 遺構

写真25 遺構

写真26 建物群跡の平坦地

写真27 遺構

写真28 建物跡の石垣

写真29 写真28にて。遺構

写真30 ブロック状の石と、右中央に倒れた古い石柱

写真31 写真30近くにて。灯籠の笠?

写真32 車道終点より最上部方面を望む

写真33 主要施設群跡。左は砥石山、右は写真34

写真34 煙突の記号がある頂上

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ