◆道湯川(どうゆかわ)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「龍神」(大正3.4)を使用したものである
所在:田辺市中辺路町道湯川(なかへちちょう―)
地形図:恩行司/龍神
アクセント:ドーユカワ
形態:山中に家屋が集まる
標高:約400m
訪問:2007年10月・2010年6月・2020年12月ほか
町の北東部、本宮町【現・田辺市】との境にある。熊野古道(中辺路)沿いの集落で、熊野九十九王子のひとつ、湯川王子がある。
大字道湯川は近世の牟婁郡道湯川村。明治22年近野(ちかの)村(のち中辺路町)の大字となる。
かつての家々は湯川川(ゆかわ-がわ)中流の小さな平地に集中するのみで、その規模は昔からたいへん小さい。町史が引用する「続風土記」によると、明治6年9戸、男18人・女20人。昭和24年7戸24人。
大字内には大地谷(王地谷(おうちだに))・広田・岩神(いわがみ)・熊瀬川(くませがわ)・津々良の5字。熊瀬川には熊瀬川王子跡・媒人茶屋跡。岩神には岩神王子跡、王地谷には湯川王子(=道湯川20番地)がある。
集落は湯川川沿いにあるが、熊瀬川谷から林道(道湯川線)を入ると近くまで自動車で行くことが可能。なおかつての生活道も湯川川を遡るものではなく、熊瀬川谷から尾根を越えるもの(※1)。林道の開通は昭和40年であるので、無住となるまで利用されていた。
現在集落跡には廃屋(※2)(写真1)が1軒残るのみ。周囲には数軒の屋敷跡が確認できる。そのほか墓地が2箇所で、一方は「湯川一族の墓」(写真5)として案内板もある。もう一方は相当古く、苔むした墓石が散乱している(写真7)。ほか石垣で段々になった田の跡や、南部の高みには小さな社(写真6)が見られた。
以下は湯川王子に建てられた案内板より抜萃。
(略)参詣の途上、ここで宿泊や休憩することが多く、上皇・女院の御所や貴族の御所が設けられました。この地は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に勢力をふるった湯川氏の発祥の地と伝えられ、(中略)。江戸時代には、本宮町の湯川(下湯川村)と区別するために、道湯川村と呼ばれ、(中略)もともと山中の小村でしたが、昭和三十一年(一九五六)無人の地になりました。現在の王子社の建物は、昭和五八年に再興されたものです。
湯川家の近縁の方の話では、古くは義務教育の免除地だったという(通学区は隣の大字野中(のなか)であった) 。湯川姓・阪本(さかもと)姓。
※1 平成23年9月の台風12号により湯川川沿いの熊野古道が通行止めとなり、同24年3月迂回路として整備された。同月10日開通
※2 かつての住民(坂本氏。昭和15年まで居住)の話によると、林業を営む会社の事務所兼飯場とのこと
2018年秋より集落内において発掘調査が行われ、江戸時代の建物跡や食器類が出土。古道沿いに説明看板が設けられた(写真10)。以下はその説明文。
道湯川集落は、室町時代(1336〜1573)に日高郡に勢力を誇った湯川氏一族発祥の集落として知られる。この集落は、建仁元年(1201)10月に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に「湯河宿所」とみえ、承元4年(1210)5月に修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には、この周辺で休憩をとるなどしたことが記されている。また、応永34年(1427)9月に足利義満の側室
北野殿が参詣した折には、「奥の湯川」を称する豪族が歓待したと記されるなど、少なくとも鎌倉時代(1185〜1333)には人々が住み、室町時代を通じて貴族らの宿場や休憩所として繁栄していたことがうかがえる。その後の江戸時代(1603〜1867)寛政10年(1798)の紀行文にも、「人家多く宿茶屋あり」とあり、この集落は長く人々が住み、また参詣者らが行きかっていた様子を知ることができる。しかし、昭和31年(1956)に最後の住人が離村し、廃村となった。
和歌山県が平成30年度(2018〜2019)に実施した発掘調査では、鎌倉時代から室町・安土桃山時代(1185〜1603)に建てられたとみられる2間×5間の掘立柱建物跡や昭和(1926〜1989)の建物跡が確認された。また、こうした遺構や調査地周辺から鎌倉時代の山茶〓(※3)や室町時代の中国製青磁、室町時代から江戸時代の土師器皿、江戸時代の陶磁器などが出土した。なかでも、とくに掘立柱建物跡は規模も比較的大きく、また、調査地周辺から中国製青磁が出土したことなどから、上記参詣時の宿場や休憩所に関わる建物跡の可能性があり、大変注目される。
※3 〓は土へんに宛
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