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◆北ノ川(きたのかわ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「新宮」(昭和28.4)を使用したものである

所在:新宮市熊野川町畝畑(くまのがわちょううねはた)
地形図:紀伊大野/新宮
アクセント:キタノカワ
形態:川沿いの斜面に家屋群が散らばる
標高:中平―約310m 梅木平―約300m モチノキ―約320m ヲモヤ―? 奥平―約350〜400m
訪問:2013年2月・3月・2016年8月

 

 町の南部。赤木(あかぎ)川の支流、和田(わだ)川上流にある。
 以下は町史より、集落に関する記述。

明治20年には梅木平(うめのきだいら)1軒・ヲモヤ(おもや)1軒・モチノキ(もちのき)4軒・奥平(おくだいら)2軒の計8軒が宅地として記録されている(梅木平・ヲモヤ・モチノキは本流の流域、奥平は支流の小原谷流域)。このほか北ノ川地区の入口に中平(なかのだいら)があり、ここには住宅2軒(※1)と寺院(永詠(えいえい)(※2)。臨済宗)があった。明治24年10戸44人
須川姓が多い。町村制以前の「北ノ川村」の村長も須川氏であったが、一族は明治末から大正にかけて離村。樫原や小口(※3)へ転居
この転出の後、製炭従事者等が定住地を求め跡地に居住(※4)したが、これらも昭和初期から次第に離村する。昭和30年頃最後の家が転出、無住となる
大正6年畝畑小学校の分教室設置。児童9人、教師1人。昭和7年廃止
かつては独立した大字であったが、現在は畝畑に所属(※5)

 また「角川」によると、大字北ノ川は近世の牟婁郡北ノ川村。明治22年小口村(のち熊野川町)の大字となる。明治初年には神社として高倉社があった。明治6年8戸38人、同24年10戸44人。

 先述の小集落のうち、2月に中平と梅木平を訪問。中平は県道から吊橋を渡ってすぐの場所で、農地跡と屋敷跡・寺院跡を確認。寺院跡には廃屋と石仏群が見られた(写真5・6)。梅木平はここから少し上流へ向かい谷側に降りた場所。屋敷跡が1箇所ある(写真7)。さらに上流へ向かおうとしたが、直進する道は橋が落ちており、また上方へ分岐する道でも路面が崩れており通行できず。
 3月に畝畑(小口)在住者の案内で奥平を訪問。小原谷の左岸で広い農地跡や屋敷跡1箇所、墓(写真11)を確認。墓は新しいものでは明治のものが見られる。お宮さんの跡のような場所も見かけたとのことだったが、発見には至らず。
 この方の話によると、小原谷のさらに奥に「ジゲザコ」(漢字表記は「地家峪」と推測している)と呼ばれる古い石垣が組まれた土地があり、古い人からは畝畑発祥の地(須川(すかわ)家・峯(みね)家)であると伝え聞いているという。

 2016年8月、改めて那智勝浦側より県道45号を利用し上流側(モチノキ)を訪問。現地にはある程度の農地跡が見られるほか、「北長造林小屋」の案内に従い分岐を登ると複数の屋敷跡と墓地を確認。分かるものでは須川氏。
 ヲモヤは未訪問。

※1 先述の明治20年の記録には地名が見られず、後年になってからの居住か
※2 「角川」では永昌庵とある
※3 「樫原」は現在の那智勝浦町樫原(かしわら)だろう。「小口」は町内畝畑および西(にし)にある地名だが、本文の「山村生活圏の中心をなす便利でにぎやかな集落」という記述より後者と思われる
※4 この時中平の2軒を買った家族は、いずれも田辺市周辺から来て製炭を営んでいたという。明治以降、熊野川流域で炭を焼く人々のほとんどは田辺方面から来ており、粗末な小屋を建てながら移住を繰り返していた
※5 ただし地図媒体によっては北ノ川を大字として扱うものもある

 


画像1 中平

画像2 梅木平

画像3 モチノキ

画像4 奥平


写真1 橋


写真2 農地跡(以下中平)


写真3 屋敷跡


写真4 屋敷跡にて


写真5 寺院跡


写真6 石仏群


写真7 屋敷跡(梅木平)


写真8 屋敷跡(以下奥平)


写真9 屋敷跡にて


写真10 農地跡


写真11 墓


写真12 農地跡(以下モチノキ)


写真13 屋敷跡


写真14 屋敷跡?


写真15 屋敷跡(北長造林小屋跡?)


写真16 墓地と巨木


写真17 少し下流の農地跡

 

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