◆久保(くぼ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「高野山」(昭和26.7)を使用したものである
所在:九度山町北又(きたまた)
地形図:橋本/和歌山
形態:山中の稜線付近に家屋が集まる
離村の背景:(2世帯現住)
標高:約530〜550m
訪問:2008年10月
町の南東部、大字北又・東郷(ひがしごう)境界の稜線付近にある。最近の地図には大字名があるだけで集落名の記載はない。なお集落の「北又」は、北又川と丹生(にゅう)川との合流部にある川口(かわぐち)集落より、ひとつ上流側にあるものを指す。
現住の方の話では、かつては16軒の家があったが、現在常住の家は2軒。10軒は家を残し、時々所用で訪れている。世帯数は少ないが、寂れた雰囲気はまったくない。この日も、空き地の草刈りや学校の校庭の整備で訪れている方がいたが、いずれも連休を利用して戻ってきていた。学校(久保小学校)(写真)は5、6年前(平成10年代)に休校。10年くらい前(平成10年前後)に火災があり校舎が全焼したが、当時の児童1人のため新しく建て替えられた。理科の実験をする部屋が火元だったが、原因は分かっていない。かつてはマツタケ・木炭・鉱物を産し、たいへん賑わっていた。買い物などの拠点は河根(かね)だったが、遅くまで車道がなく、産物や生活物資を背負って歩いていた。鉱山(大正2年操業開始。名称は聞き忘れたが、町史より「久保鉱山」であることが判明。後述)の最盛期(大正8〜11年くらい)には、小学校の児童数は120人ほど。昭和23年に電気導入。
久保鉱山…明治期に山林の所有者が鉱脈を発見。鉱夫の親方が所有したのち、明治末に大阪の鉱業会社へ譲渡、事業拡大。鉱石は索道で野平(※1)の上空を通って、河根道の赤瀬の上(かみ)(※1)まで出し、そこから牛車で高野口駅に運んでいた。鉱塊の3分の2ほど掘ったとき、地下水が溜まって作業ができなくなり操業停止。(町史より抜萃・改変)
※1 具体的な場所はよく分からない
以下は町史より学校の沿革(抜萃・改変)
明治9.9 |
北又・東郷二か村組合で、北又村字久保365番地、薬師堂(現在の久保小学校からから南約100mの丘)を校舎として発足(久保小学校)。同年学制が変わり、北又簡易小学校と改称したが、東郷は分かれて新たに1校を設けた |
明治22頃 |
北又にも校舎を作る。教員が1人のため、両地区の児童を半月ずつ代わる代わる北又校舎・久保校舎に通学させた |
明治27.12 |
北又尋常小学校と改称。大字北又・市平(いちだいら)を学区とした |
明治34.8 |
一箇所に統合しようと話し合いを重ねたがまとまらず、北又と久保の2箇所に校舎を建てて、どちらも単級で授業をした。学区は北又が北又・川口・柿平(※2)・市平。久保が久保・黒河 |
明治41.5 |
2校を合併し、久保小学校に統一 |
明治44.4 |
東郷尋常小学校を合併 |
大正6頃 |
久保鉱山の事業が盛んで、児童数は100人を越えた |
昭和10.4 |
現在の校舎を建設 |
昭和39.5現在 |
学級数3、児童数男23・女25、教員数4 |
※2 位置と読みは不明。北又集落の北の家屋群か
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