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◆平治川(へいじがわ)
(上平治(かみ―)・下平治(しも―)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「龍神」(昭和28.7)を使用したものである

所在:田辺市本宮町平治川(ほんぐうちょう―)字上平治・下平治ほか
地形図:発心門/龍神
アクセント:ージガワ
形態:川沿いの斜面から山中にかけて家屋が集まる
離村の背景:移転事業(上平治は自然消滅?)
標高:上・400m弱 下・300〜400数十m
訪問:2010年4月

 

 四村(よむら)川の支流、奴田(ぬた)谷の上流部にある
 上平治は西側の支流、下平治は東側の支流に位置する。標高や上流・下流、南北といった位置関係によらず「上」と「下」に分かれているのも珍しい。

 大字の平治川は近世の牟婁郡平治川村。明治22年に四(よ)村(後の本宮町)の大字となる。枝郷として「野平村」があった。谷間の傾斜地に僅かな耕地があるが、専ら林業で生計を立ててきた。明治6年38戸135人・昭和35年18戸101人・昭和45年10戸31人。昭和48年、集落再編整備事業により全戸(10世帯)が温水(ぬくみ)団地(大字本宮)に転出。平家の落人が住み着いた地。(「角川」より要約)

 温水団地は昭和48年に完成。平治川10戸のほか、道ノ川(本文では「道の川」)(大字三越(みこし))8戸が移転。
 平治川を校区に持つ四村川(よむらがわ)小学校久保野(くぼの)分校(大字久保野)は、平治川の住民の移転もあり昭和48年3月に閉校式を行う。同49年3月廃校。
 寺院は滝徳庵(臨済宗。山号は玉泉山)(字細さこ)。神社は氏神の八川神社(若宮神社)(字上西畑)など。
 和歌山県の無形民俗文化財「平治川の長刀踊」の伝承地。離村後は、保存会により地元の子供たちに継承されている。(町史より要約)

 

 

≪上平治(奥平治)≫

 

 現地には緩い斜面に石垣で段々になった農地跡が残り(写真1)、かなりの広さがある。先述の「僅かな耕地があるが」という記述から鑑みると、少なくとも「角川」が執筆されたころ(昭和50年代以前)には無人になっていたのだろう。後述の下平治と比べ生活を窺わせるようなものがほとんど見られず、離村は古い時期と思われる。先述の「野平」か。農地跡以外では何かが建っていたような場所が1箇所見られたが、人家かどうかは分からない(写真2)。ほか集落の入口で、巨木の袂に何かを祀っていたような跡を確認(写真3)。
 訪問時は下平治より久保(くぼ)峠を越えて向かったが、上流まで車道が通っており渡渉地点までは自動車で行くことができる。

 


写真1 農地跡

写真2 道(中央)と屋敷跡?(右)

写真3 何かが祀ってあった跡

 

≪下平治≫

 

 林道(曲川平治川支線)の終点付近。通常「平治川」といえばこちらを指すと思われる。左岸・右岸ともに人家と農地が分布。
 右岸では稜線(久保峠)付近まで屋敷跡や廃屋が点在。中腹には寺院の廃屋が残り(写真4)、建物の前には多くの石仏が並んでいる。峠には石仏や灯籠があり、これらのすぐ裏には墓地がある。峠のすぐ下に廃屋が1軒あるが、墓地はこの家のものだろうか。
 左岸では比較的谷に近い場所に屋敷跡が集まっている。見つかった屋敷跡は4、5箇所。風呂釜や竈など、残されたものでそれと分かる。古い墓地も確認。
 全体的に石仏が至るところで見られるのが特徴的。また上平治に比べると農地は少ない。

 


写真4 寺院(滝徳庵)

写真5 道

写真6 屋敷跡にて

写真7 何かを祀ったもの

写真8 廃屋

写真9 峠の石仏群

写真10 墓地。竿石が台石の上に寝かせてある

写真11 物置小屋

写真12 屋敷跡にて

写真13 石仏群

 

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