◆大瀬(おおせ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「江住」(昭和24.5)を使用したものである
所在:白浜町大瀬
地形図:市鹿野/江住
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
標高:垣内・160〜200m 下平・約170m 訪問:2010年2月(HEYANEKO氏と共同)
日置川の支流、将軍(しょうぐん)川中流にある。
垣内に多くの家屋が集まるほか、少し下流の下平(下も平)(しもだいら)にも数軒の家屋と学校(大瀬小学校)がある。なおスキャン画像での学校の位置は、移転する前のもの(垣内)。
隣の竹垣内(たけがいと)の方の話では、現在籍のある家はないが、2軒がよく出入りしているそう。うち1軒は山林の手入れで頻繁に出入りしている。2軒とも大阪に転出した。また下平の家は3軒。小学校の校区は上露(こうづゆ/コーヅイ)・大瀬・竹垣内・北谷の4大字。
垣内では、管理された家屋が斜面に数軒集まっている。また最上部には墓地があり、小さな薬師堂も残る(写真2)。道路を挟んだ平地は、農地の跡だろう。
下平では学校のほか廃屋1軒、屋敷跡1箇所(写真3・4)と農地の跡を確認。なお学校の付属施設(講堂?)は、「大瀬僻地集会所」として大瀬地区の災害時の避難場所として指定されている。
以下は町誌と『将軍川誌』より、学校の沿革をまとめたもの。
明治11.11.11 |
大瀬尋常小学校創立。福井氏の住宅を仮教室とする |
明治12.3 |
校舎完成 |
明治22.8.13 |
大水害のため閉校、校舎を売却 |
明治24.4.15 |
大瀬126番地に校舎再建、再び開校 |
明治35.4.1 |
上露尋常小学校を本校の分教場とする(明治40.3.31まで) |
明治41.4.1 |
大瀬134番地に校舎完成 |
昭和11.1.1 |
下平に移転(大瀬字下も平36番地・37番地) |
昭和45.3.31 |
廃校。市鹿野(いちかの)小学校に統合
※のち将軍地区(上露・大瀬・北谷・竹垣内)の集会所として利用された。 |
なお大字大瀬は近世の牟婁郡大瀬村。明治22年、川添(かわぞえ)村(昭和31年日置川町に)の大字となる。明治6年14戸67人、明治24年12戸88人。昭和50年4戸7人。生業は山仕事と農業で、夏は稲作、冬は野菜栽培をしていた(「角川」より)。
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