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◆矢野原(やのはら?)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「釋迦ガ嶽」(昭和29.3)を使用したものである

所在:十津川村川津(かわつ)
地形図:風屋/釈迦ヶ岳
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
標高:290m前後(水面は約290m)
訪問:(2008年12月?)・2022年5月

 

 大字川津の東部、十津川右岸にある。現在は風屋(かぜや)ダムの湛水に伴い水没。
 資料『十津川の地理』によると、昭和34年4戸13人。風屋ダムの建設のため移転し、転出先は川津の津越野4、村内折立(おりたち)1、五條市1、愛知県1、千葉県1(※1)。当地にあった川津小学校も、津越野へ移転した。

※1 戸数の合計が合わないが、昭和34年以前の転出者も含めたものか

 前回は対岸より撮影したのみであったが、2022年右岸の林道(川津今西線)を経由し現地を訪問。林道から現地までは勾配がややきついが、しっかりとした徒歩道が通じている。水没前は杣道であったか。
 まず非水没地において、小祠と神社跡、1箇所の墓地を確認。墓石には原田氏の名が見られる。また水位が下がった湖岸で、石の支柱に囲まれた場所を確認(写真8)。これは集落でも比較的高所にあった学校の跡だろうか。
 なお小祠と集落との間には東へ向かう横道のようなものが見られたが(写真11)、野広瀬方面に通じているものか、あるいは水路跡だろうか。しばらくこれを歩いてみたが、谷を越えた先で消滅している。
 また移転した川津小学校は既に閉校し、川津公民館として転用されている(写真12)。校地には灌漑用水路完成の記念碑が置かれているが、おそらく矢野原にあったものが水没に伴い移転したものだろう。以下はその全文(■は判読できなかったもの。また字体が混在しているものがあるが、本文ママ〔「来」と「來」など〕)。


 紀■(※2)

矢野原之里古来水乏夏時往往不免(※3)枯渇居民患之郷先輩西寔則原田直堯中井義光三子胥議覓源於大黒谷開水路者廿八丁糧盡食藷黍以從事〓(※4)年而竣工實明治〓(※5)一年也明年(※6)大水溝渠殆壞三子不屈復修補之爾來四十餘年源泉滾滾流而不■(止?)居民頼(※3)以拓荒蕪便灌漑得厚其生三子之惠嗚呼亦大也哉頃者居民欲樹碑紀其徳(※3)永〓(※6)後人来請予文因敍其梗概如斯云 昭和九年(※6)四月 中垣良彦謹撰並書


※2 篆書体で判読できないが、りっしんべんに「悳」のように見える
※3 旧字
※4 「參」の下部(「彡」)がしたごころ
※5 「合」の下に「心」
※6 異体字。「禾」の縦棒を伸ばし、横棒2本
※7 ごんべんに念

 


(写真1 ダム堰堤)
(2022年撮影)


写真2 集落付近を望む
(2008年撮影?)


写真3 小祠
(以下2022年撮影)


写真4 神社跡


写真5 同。本殿跡。灯籠の台座?には「川津氏子」とある


写真6 墓地


写真7 何かの遺構


写真8 学校跡の一部?


写真9 階段


写真10 石垣


写真11 横道?


(写真12 現在の川津小学校〔津越野にて。現在は閉校〕)

 

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