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◆洞(ほら?)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/20,000地形図「高田」(明治43.11)を使用したものである

所在:橿原市大久保町(おおくぼちょう)
地形図:畝傍山/吉野山
形態:山裾に家屋が集まる
標高:約70m
訪問:2019年5月

 

 大久保町の南西部、畝傍山(うねびやま)の北東およそ300mの山裾にある。神武天皇陵から桜(さくら)川(高取(たかとり)川支流)を挟んだ対岸で、南参道のすぐ西側に当たる。
 
参道側からは3本の道が通じているが、南からのものを除き簡素な遮断桿が設けられ、立ち入りが制限されている。看板には宮内庁と記され、現在は官有地となっているよう。
 参道から山本町へ抜ける道にかけて集落方面を一瞥したが、雑木林が広がるのみでこれといった痕跡は確認できない。南側の出入口からある程度進入したが、やはり山林が広がるのみ。
 以下は
市史より当地の移転の経緯に関する記述の抜萃・要約。

 江戸時代後期より、幕府により歴代天皇の陵墓の選定・修築の事業が各地で開始する。このうち神武天皇の陵墓の位置としてミサンザイ・ジブデン付近(現在地。前者は「陵」、後者は「神武田」が訛った地名という)と丸山(洞地区の上方)が有力視されていた。前者は9世紀に存在していたとされる国源寺の塔の土壇という説が有力で、とりわけ後者が支持されていたが、文久3(1863)年2月17日に現在地に決定。
 明治以降は神武天皇祭・紀元節といった祝日が定められ、神武陵には天皇や勅使が頻繁に行幸し、これを見下ろす位置にある洞は次第に忌まわしい存在となる。明治31年の陵墓拡張、大正元年の橿原神宮拡張、同4年の大正天皇大典といった動向の中、集落の強制移転が画策されていく。
 大正7年9月、集落の移転決定。移転は強行され、大正9年に完了。陵墓の境域も拡張した。

 


写真1 参道より集落方面を見る


写真2 北側の道より集落方面を見る


写真3 道と門


写真4 同


写真5 学校の記号付近?


写真6 集落南部の入口


写真7 集落南部の風景

(写真8 神武天皇陵)

 

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