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◆三濃山(みのうさん)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「上郡」(昭和40.7)を使用したものである

所在:相生市矢野町三濃山(やのちょう―)
地形図:二木/上郡
形態:山中に家屋が多数集まる
標高:450m前後(登り口は約280m)
訪問:2010年11月

 

 市の北部にある。集落は大字内の中部で、三濃山(同名の山)の南斜面上。
 居住地は小字の東谷(ひがしだに)と西谷(にしだに)。山の南に延びる稜線を境に東側が東谷、西側が西谷。家屋群の周囲には水田や山林が広がっている。稜線上には神社や寺院などの主要な施設(写真1〜)が集まっている。
 市史には往時の三濃山について詳細な記述がある。以下はその記述をいくらか抜萃したもの。

明治時代には14戸70人
昭和2年、石田3・藤田3・高見2・山本2・清水・中田・保本の13戸
集落への道は、瓜生(うりゅう)から西谷に至るもの(鍛冶屋道・鍛冶屋谷道)・能下(のうげ)より東谷に至るもの(田ノ後道)・上郡町金出地(かねじ)より西谷に至るものの3つ。瓜生に降りるものが本道
生活面では、上郡の金出地との関係が深かった
古くは鉱山があり、「三濃千軒」ともいわれるほど人が集まった(この場合の「千軒」は誇張表現)
米作りと冬の炭焼きが主な仕事。灘五郷(神戸市東灘区など、大阪湾沿岸の日本酒生産地域の呼称)に酒米を搗く出稼ぎに行く若い者もあった(大正〜昭和初期)。昭和30年代になると木炭が売れずタバコを作ったが、5年ほどで廃止。若い人は造船所に勤めたりしたが、通勤には苦労を要した
寺院は求福教(ぐふくきょう)寺(通称「観音さん」)。神社は大避(おおさけ)神社・山王権現社など
電気がついたのは昭和22年、電話は農協の有線電話が昭和34年(普通電話は離村後の昭和54年)

 なお大字三濃山は近世の赤穂郡三濃山村。明治14年17戸64人。同24年16戸、男34・女42、同40年頃14戸70人。昭和10年10戸38人。明治22年矢野村(のち相生市の一部)の大字となる。第二次大戦後、若者の離村が続き過疎化が進行。同40年1戸2人、同55年に居住者が無くなる(角川)。

 


写真1 旧求福教寺

写真2 山王権現(左)と水子地蔵(右)

写真3 石塔

写真4 墓地


≪東谷≫

 倒潰家屋や屋敷跡を数箇所確認。水場のような場所には、梵字のようなものが刻まれた丸い石が置かれている(写真5)。脇の小さな小屋には電線が引かれ外灯もあるが、何の場所であるかは分からない。
 能下方面からの道はある程度整備されているものの、やや荒れており迷いやすい場所もある。
 以下は市史より昭和15年以降の離村状況。長井夫妻は離村後も通い農業で寺の本堂や村を守ってきたが、昭和52年12月を境に行かなくなった。

離村時期 転出先 備考
石田(本家) 昭和15(1度目)
昭和37(2度目)
大阪市
姫路市
昭和20年帰郷
長井(石田分家) 昭和48.12 姫路市 石田本家の娘夫婦
中田 昭和15 市内矢野町瓜生  
清水 昭和17 龍野市揖西町竹原(いっさいちょうたけはら)  

 


写真5 屋敷跡


写真6 水場にて


写真7 水田跡


≪西谷≫

 屋敷跡を数箇所確認。瓜生方面への道を少し歩いてみたが、道はよく整備されているよう。建造物の修繕などの際は、こちらの道を利用して物資を運んでいるのだろうか。
 以下は市史より昭和15年以降の離村状況。

離村時期 転出先 備考
山本(本家) 昭和28 市内垣内町(かきうちちょう)  
山本(分家) 昭和39 和歌山市  
高見(本家) 昭和40 姫路市  
高見(分家) 昭和41 市内旭(あさひ)  
藤田(本家) 昭和38 市内矢野町瓜生  
藤田(分家) 昭和39 市内緑ヶ丘(みどりがおか)  

 


写真8 屋敷跡

写真9 屋敷跡

 

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