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◆外島(そとじま)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/2,500地形図「大阪西北部」(昭和9.10)を使用したものである

所在:大阪市西淀川区中島(なかじま)二丁目
地形図:大阪西北部/大阪西北部
形態:三角州の川沿いの施設・居住地
離村の背景:災害
標高:数m
訪問:2022年12月

 

 中島地区の西部、中島川左岸の河口付近にある。
 ハンセン病の保養院の敷地をもって一町を形成。昭和9年9月の室戸台風により潰滅的な被害が生じ、無住となった。
 区史によると、明治41年11月9日川北村布屋より分離し大字外島が成立。布屋新田の内堤の外側に当たるために名付けられたとのこと。大正14年4月1日大阪市に編入し、西淀川区外島町となる。昭和47年2月、中島二丁目の一部となる。
 室戸台風の際には、布屋町・中島(なかじま)町・外島町・西島町の堤防が決潰し、浸水は矢倉(やぐら)町・酉洲(とりしま)町も含め一帯の町全域に及んだ。

 論文「室戸台風、大阪での暴風・高潮の被害」によると、室戸台風の襲来時には保養院の海に面した堤防が全部決潰。北側堤防も数箇所決潰し、新旧病舎・本館・職員舎宅のうち、鉄筋コンクリート造の治療所および付属のボイラー室など2、3の建物を除き暴風と高潮によって大部分が倒潰したという。職員3名、職員家族11名、入院患者587名のうち173名が死亡・行方不明となった。
 生存者の多くは正門前の堤防に避難したが、それでも腰付近まで水に浸かり、流されないように松並木や電柱に縋ってようやく助かったという。堤防も平均海面より2.1-2.4m高い程度であった(引用する『大阪市風水害誌』によると、保養院の地盤高1.33mに対し浸水深3.01m)。
 保養院内では患者棟と職員棟の間に高い塀が巡らされ、狭い出入口に患者が殺到したため避難が遅れて犠牲者が増えた。また海岸の低地で危険であったにもかかわらず、ほとんどが脆弱な木造建築であった。
 このような危険な場所に保養院が建てられたことについては、当時ハンセン病が不治の伝染病という誤解から、設置に対して地域住民の反対が強く、人里離れた地にならざるを得なかったため。当地は海抜0m地帯で、高潮・地震などの災害に弱く、安全な場所への移転が検討されたこともある。大正15年、府は泉北郡北神谷(※1)・美木田村(※2)への移転計画を発表したが、地元住民の反対運動により実現しなかった。
 大字外島の設置について、引用する「大阪毎日新聞」の記事(明治42.4.21)では、布屋新田という野菜どころに療養所を建設して布屋病院などと呼ぶのは、布屋の農民にとって気の毒な感じがするので、同院の敷地2万坪を限って外島という大字を作った、とある。
 以下被災前後の動向を記す。

 20日  15時に暴風警報発令。夜からは青年団が徹夜で警戒
 21日  朝から風が強まり、窓ガラスが割れるなどの被害が出始める。青年団・婦人会員が重症患者を隔離1号室へ避難させる
 8時15分頃、堤防が決潰。大多数の建物が倒潰。院の正門前の堤防に避難を始める。隔離1号室の重症患者は多くが逃げ遅れた
 正午には水はかなり引いたが、一面の泥沼であった
 午後、遺体の引き上げや不明者の捜索が始まる。職員が中島町や尼崎から食料品を買い集める。府庁から飲料水・食料品・毛布・布団の配給を受ける
 正門前の堤防で一夜を明かす
 22日  午後、中島橋付近の砂地にテントを張り、患者を収容。朝日新聞社・毎日新聞社から救援物資が届く
 24日  香川県の大島療養所は「神懸丸」を借り切り、第1回の救護班が18時に到着。患者99名を乗せ、岡山県の長島愛生園へ49名、大島療養所へ50名を移送
 その後、全生(東京)・九州(熊本)・北部(青森)・栗生(群馬)の各療養所にも患者を委託。10月21日栗生療養所に58人を移送し、生存患者全員の委託が終了した

 被災後は患者・職員とも大阪の地での復興を願ったが、再建されることなく、岡山県長島に「光明園」として存続した。

※1 北上神(きたにわ)村・上神谷(にわだに)村の混同か
※2 美木多(みきた)村と思われる


 現地付近では、中島川の堤防下にフェンスに囲まれた外島保養院記念碑がある(写真2)。ただし当時の地形図と現在の地形図を照合させると、現在の川岸は往時の川岸よりも北側に張り出しており、実際の位置は記念碑よりも350mほど南東の三叉路付近であるよう(写真1)。
 以下は跡地付近にある外島保養院記念碑の碑文。


明治四十二年四月 法律第十一号ニ基ヅキコノ地ニ第三区府県立「外島保養院」設立サレル 即チ 大阪府主管ノモト京都 兵庫 奈良 和歌山 滋賀 三重 岐阜 福井 石川 富山 鳥取ノ二府十県連合ニヨル 公立ハンセン病療養所トシテ開設サレタノデアル
昭和九年九月二十一日室戸台風ノ襲来ニヨリ施設ハ壊滅流失 患者百七十三名職員三名職員家族十一名ガ死亡スル大惨事トナリ生存患者四百十六名ハ全国六施設ニ分散委託 昭和十三年四月岡山県長島ノ西端ニ名称ヲ光明園ト改メ復興昭和十六年国立移管 邑久光明園ト改称現在ニ至ル
 平成八年四月「らい予防法」廃止サレル 強制収容絶対隔離ヲ根幹トシタ日本ノハンセン病対策ノ終焉ヲ記念シ外島保養院ノ日々ニ思イヲハセ茲ニ記念碑ヲ建立スルモノデアル

 平成九年十一月 邑久光明園入園者自治会

 


写真1 保養院跡付近?

写真2 記念碑

 

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