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◆天保町(てんぽうちょう)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/10,000地形図「大阪西南部」(昭和7.7)を使用したものである

所在:大阪市港区築港(ちっこう)三丁目地先
地形図:大阪西南部/大阪西南部
形態:川沿いに家屋や施設が多数集まる
標高:数m
訪問:2022年12月

 

 港区の西部、安治(あじ)川左岸にあった町。ここでは明治43年に分離した一条通(いちじょうどおり)・二条通・三条通(後述)を除いた町域について触れる。
 昭和12年の都市地図を元に新旧の版地形図と照合すると、全域が現在の安治川に水没していることが分かる。また北西端には「入津料取立所」が見られる。運河に架かる橋は「天保橋」。
 以下は天保山公園にある「旧町名継承碑」(平成6年1月、区役所による設置)(写真2)より。


 『天保町』

 明治四年五月安治川下流の海門南方八幡屋新田先の牛ヶ瀬と呼ばれた地域が天保町となった。明治三〇年四月大阪市に編入され、西区天保町となった。同四〇年四月大阪湾築港埠頭埋立地の一部が天保町に編入された。さらに八幡屋町地先の新地も同年七月天保町に編入された。同四三年三月天保町の一部が一条通一丁目・二条通二〜三丁目・三条通三丁目に編入された。大正一四年四月行政区画の変更にともない港区に編入され、同二五年(※)安治川拡張工事により、天保町の一部が安治川の水面下となった。同四三年九月住居表示の実施にともない、港晴五丁目・築港三丁目の各一部となった。
 町名は、天保二年(一八三一)に行われた安治川浚渫の土砂により形成された小山が、天保山(目印山)と命名されたことに由来する。

※ 原文ママ。実際は昭和


 区誌によると、当地は漁業者および船乗業者が天保山麓に居住し始め、漸次集落が形成されていったとのこと。この「天保山民家地」は、明治4年5月天保町となった。
 また現在築港一丁目にある住吉神社は、天保町の産土神としても崇められていた。初め天保山に祀られていたが、天保町内に鎮座していた時期がある。以下はその沿革(区誌と境内の「御由緒」より)。

 天保13(1842).3.18  創建。住吉大社より分霊を奉斎し、天保山(目印山(めじるしやま))の山上に造営された
 元治元(1864)  天保山に砲台が設置されることになり、天保町の船溜まりの南岸に遷座
 明治5  村社に列格
 明治39.9.19  住吉大社の境外末社となる
 明治40.12.10  西区靭中通の永代浜住吉神社を合祀

 大正6.7.10

 天保山運河の拡張に伴い、築港遊園地内に遷座(現在地)

 昭和20.6  戦災により焼失
 昭和24.7  仮社殿復旧

 なお氏子は天保山運河以西の港頭地域一円。境内社に稲荷社があった。

 なお旧町域の二条通三丁目(現在の築港三丁目)には築港北国民学校があった。これは明治9年4月、一番小学校の分校が置かれ、天保簡易小学校と称したもの。同37年天保尋常小学校となり、大正10年7月築港北尋常小学校と改称。昭和20年3月の空襲により校舎の罹災・人口の減少があったため、比較的被害の少なかった三先国民学校に統合。昭和22年5月、校舎は改装され港湾労務者アパートに転用された。

 「角川」によると、行政区としては明治4年西成(にしなり)郡内において発祥。明治22年市制町村制施行により自治体となる(大字は編成せず)。同30年西区の町名となる(大正14年より港区)。同43年一条通一〜二丁目・二条通一〜四丁目・三条通一〜四丁目を分離。昭和43年一条通・二条通・三条通とともに港晴(こうせい)一〜五丁目・築港一〜四丁目となる。明治9年人口375人。

 


写真1 天保山公園付近にて旧町域を望む

写真2 旧町名継承碑

(写真3 現在の住吉神社)

(写真4 天保山頂上。地面に埋め込まれた石造物は三角点)

(写真5 天保山名所図会「大浚(おおさらえ)」。〔天保山公園にて〕)

 

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