◆天保町(てんぽうちょう)
所在:大阪市港区築港(ちっこう)三丁目地先
港区の西部、安治(あじ)川左岸にあった町。ここでは明治43年に分離した一条通(いちじょうどおり)・二条通・三条通(後述)を除いた町域について触れる。
明治四年五月安治川下流の海門南方八幡屋新田先の牛ヶ瀬と呼ばれた地域が天保町となった。明治三〇年四月大阪市に編入され、西区天保町となった。同四〇年四月大阪湾築港埠頭埋立地の一部が天保町に編入された。さらに八幡屋町地先の新地も同年七月天保町に編入された。同四三年三月天保町の一部が一条通一丁目・二条通二〜三丁目・三条通三丁目に編入された。大正一四年四月行政区画の変更にともない港区に編入され、同二五年(※)安治川拡張工事により、天保町の一部が安治川の水面下となった。同四三年九月住居表示の実施にともない、港晴五丁目・築港三丁目の各一部となった。 ※ 原文ママ。実際は昭和
また現在築港一丁目にある住吉神社は、天保町の産土神としても崇められていた。初め天保山に祀られていたが、天保町内に鎮座していた時期がある。以下はその沿革(区誌と境内の「御由緒」より)。
なお氏子は天保山運河以西の港頭地域一円。境内社に稲荷社があった。 なお旧町域の二条通三丁目(現在の築港三丁目)には築港北国民学校があった。これは明治9年4月、一番小学校の分校が置かれ、天保簡易小学校と称したもの。同37年天保尋常小学校となり、大正10年7月築港北尋常小学校と改称。昭和20年3月の空襲により校舎の罹災・人口の減少があったため、比較的被害の少なかった三先国民学校に統合。昭和22年5月、校舎は改装され港湾労務者アパートに転用された。 「角川」によると、行政区としては明治4年西成(にしなり)郡内において発祥。明治22年市制町村制施行により自治体となる(大字は編成せず)。同30年西区の町名となる(大正14年より港区)。同43年一条通一〜二丁目・二条通一〜四丁目・三条通一〜四丁目を分離。昭和43年一条通・二条通・三条通とともに港晴(こうせい)一〜五丁目・築港一〜四丁目となる。明治9年人口375人。
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写真1 天保山公園付近にて旧町域を望む |
写真2 旧町名継承碑 |
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(写真3 現在の住吉神社) |
(写真4 天保山頂上。地面に埋め込まれた石造物は三角点) |
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(写真5 天保山名所図会「大浚(おおさらえ)」。〔天保山公園にて〕) |