戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆平和町(へいわちょう



※ 明色部
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「四日市」(昭和30.8)を使用したものである

:四日市市塩浜町(しおはまちょう)
地形図:四日市東部/四日市
形態:川沿いに家屋が並ぶ
離村の背景:公害
標高:数m
訪問:2015年11月・2016年3月

 

 塩浜町の南東部。旧磯津(いそづ)橋の北側、コンビナート地帯と鈴鹿(すずか)川に挟まれた帯状の土地に住宅が並んでいた。
 以下は市史および資料『しおはま80年の変遷』より、当地の概要。

元は第二海軍燃料廠工員住宅(国有地)であったものを市が払い下げを受け、引揚者用の市営住宅として4戸1棟の住宅を15棟建設。戦後の平和を願い 「平和町」と命名された。住宅は国から居住者に払い下げられ、土地は市有地となっていた。しばらくしてから、市営住宅以外にも住居ができた
会社員の家庭が多かったが、自転車店・菓子雑貨店・タバコ販売・鍛冶職・ペンキ職・珠算塾・自動車修理業といった自営業の家もあった
昭和35年頃67戸
燃料廠は戦争中に爆撃され長らく放置されていたが、昭和30年頃より戦後復興の趨勢に乗じ民間企業による石油化学コンビナートが建設される。昭和30年代半ば以降、コンビナートが本格操業に入り大気汚染の公害問題が発生。この頃から移転者が現れ始めた
昭和38年4月、市は住民に対し「町の跡地を工場地帯の緑地として残す」「家屋は市が買い上げ、住民は別に設けた市営住宅に移転する」といった条件を提案する
昭和42年4月、全町移転が決定。日永(ひなが)の登城山(とじょうやま)に鉄筋4階建て24戸の市営住宅2棟を建設
ただし一部住民が補償が不十分だとして反発。22戸が平和町人権擁護同志会を結成し(昭和41年)、法務局や建設大臣を相手取り訴訟を起こすも却下。これを不服とした12世帯が依然として住み続けたが、次第に移転世帯が増え昭和52年1月末に最後の1戸も転出した
昭和36年66戸279人、同38年63戸253人、同41年50戸199人、同42年27戸117人(「町別人口推移」の表)

 高旭の跡地を望もうと堤防に上がる際に当地にも足を踏み入れているが、当地の存在を把握していなかったため写真には収めていない。現在は空地や緑地になっており、鉄道の引込線も廃止されている。
 2016年3月再訪。緑地(雑木林)の中を歩いたものの、痕跡はほぼ皆無。時おり見られるコンクリート?の破片は往時の名残か。

 


写真1 東端より旧街区を望む


写真2 住宅地跡


写真3 往時の痕跡の一部?


写真4 住宅地を横断する溝。往時からのもの?


写真5 西端より旧街区を望む

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ