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◆荒神茶屋(こうじんちゃや)



※ 明色部
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「尾鷲」(昭和23)を使用したものである

所在:尾鷲市九鬼町(くきちょう)
地形図:尾鷲/尾鷲
形態:山中の一軒家
標高:約580m
訪問:2020年12月

 

 九鬼町の北西部、八鬼山(やきやま)の北側にある。熊野古道(伊勢路)沿いで、西国三十三箇所札所の荒神堂(日輪寺)がある。
 訪問は新八鬼山林道より。県道778号から「健康とゆとりの森」の案内に従い林道へ分岐。林道は古道の九木(くき)峠(写真1)の下まで延びているが、617.8mの三角点のある山の付近でゲートが設けられているためここから先は徒歩によった。
 現地には荒神堂と茶屋跡の平坦地が見られる。荒神堂は荒廃が進んでいたが、2019年6月より解体工事が始まり同年9月には新しい堂宇が完成。茶屋跡では区劃が道を挟んで東西に分かれているが、いずれかが茶屋、いずれかが住居であったのだろうか(※)
 以下は堂宇前に設けられた「八鬼山三宝荒神石像」の解説板より(必要に応じルビを《 》で付した)。


 ここに八鬼山日輪《にちりん》寺があり、その歴史は古く、今から一三〇〇年もさかのぼる。
 大宝二年(七〇二)、修験者である阿闍梨返昌《へんしょう》院仙玉《せんぎょく》法印の創基と伝えられ、一時衰退したが、天正初年(一五七三〜)になり権大僧都《ごんだいそうず》・各真《かくしん》法印が中興した。
 お堂(荒神堂)の中には、高さ約一mの三面六臂の「石像三宝荒神《さんぽうこうじん》立像」がある。舟形光背の向かって右に「信州之住人各真権大僧都、八鬼山日蓮此時本願」。左に「三宝大荒神本尊、天正四年甲子今月今日、所願成就如意」と刻まれている。【甲子は丙子の誤り】
 各真の没年は天正四年(一五七六)正月二十八日であり、当時の修験者が各真の徳をたたえて奉納したといわれている。
 この荒神堂は、西国三十三ヵ所第一番札所の「前札所」として、八鬼山越えの巡礼が道中の安全を願って参拝した。
 太平洋戦争中は、尾鷲や近隣の人たちが武運長久を祈願してにぎわった。

 (昭和五十三年(一八七八)二月六日 三重県有形民俗文化財(彫刻)指定)


 なお堂宇の手前には、像が昭和30年9月に市指定の文化財となったことを記した石板がある。
 また以下は茶屋跡の脇にある「八鬼山・荒神茶屋跡」の説明板より。


 荒神堂の横、南側の平地に「荒神茶屋」があった。
 茶屋は旅人が休息する場所であり、食事はもちろん、その土地の菓子や果物などの“名物”があり、旅人が草鞋などを補給するところでもあった。
 江戸時代(文化九年・一八一二)の旅人の記録、道中日記に、

 【八鬼山日輪寺山伏寺なり。茶屋。餅、酒売るところあり】

と茶屋のことが記されている。
 西国三十三ヵ所名所図絵(嘉永元年・一八四八)には、杉皮屋根に石を載せた平屋建ての茶屋と旅人がリアルに描かれている。
 この茶屋は荒神堂をまつる岩本家(尾鷲市)が経営した。明治の頃にはここで売る“饅頭”が名物になり、飛ぶように売れたという。
 茶屋をたたむ昭和初期まで、八鬼山を越える巡礼や旅人をもてなした。


 茶屋跡を過ぎると谷水を集めた水場があり(写真8)、その周囲には神号が刻まれた複数の石塔が置かれている(写真9-11)。
 さらに茶屋跡の後方には墓地があり、ここでは解説でも言及されている岩本氏の名が見られた(写真12)。

※ インターネット上では、2019年以前の記録で青いトタンで覆われた廃屋が確認できる。堂宇新築と同時にこの廃屋は解体されたよう

 


(写真1 現地手前の九木峠)

(写真2 現地への道と石仏。石仏は丁石を兼ね、写真のものは四十六丁)

写真3 荒神堂

写真4 茶屋跡

写真5 石の鉢

写真6 茶屋下の廃材

写真7 何かの跡

写真8 水源(右の水槽に水が溜まる)

写真9 水源付近の石造物群。左から「天龍大明神」「白髭稲荷大明神」「白瀧龍王」とある

写真10 同。右手前から「黒龍大神」「白龍大神」「山王大権現」「八大龍王」とある

写真11 同。左は「天上地蔵大菩薩」とある

写真12 八鬼山方面への道

写真13 石仏群(外に1体、中に3体)

写真14 墓地。右の石塔は「三界萬靈塔」とある

(写真15 八鬼山への道。右の石仏は四十七丁)

(写真16 八鬼山頂上)

(写真17 頂上付近の三木峠茶屋跡)

 

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