戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆西洞(にしぼら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「美濃町」(昭和27.6)を使用したものである

所在:山県市柿野(かきの)
地形図:下洞戸/美濃
形態:谷沿いに家屋が集まる
離村の背景:移転事業
標高:各項目参照
訪問:2009年5月

 

 板取(いたどり)川の支流、柿野(かきの)川上流(西洞谷)に沿う。
 
明治初年には47軒。柿野小学校西洞分校があり、主な生業に炭焼きや蒟蒻芋作りなどをして生活していた。明治年間には殆ど家の移動はなかったが、大正年間に7軒の移住がある。昭和に入ってからの移住は、浜松市へ6軒、滋賀県へ3軒。昭和40年代には8軒となる。
 
分校の児童数も大正1322名、昭和432名。44年休校、45年廃校。最後に残った7戸の家は、町の指導により大字富永(とみなが)へ集団移住。(町史)
 
中心部には「西洞の人家分布図」の碑(写真。平成7.10建立。おそらく大正の移住が始まる前)があり、これによると上流より峠・戸立・桑平・中心部・坂下・洞・シケ洞の地域に分かれる

 


写真 碑

 

≪中心部≫

標高:400m

 

 最近の地図で墓地の記号・392mの水準点がある付近。碑では固有の地名は記されていない。分校(写真2)・公民館(写真3)・お宮があり、坂下との境界付近には「子守岩」がある。桑平との境界が分からないが長屋8・村井7・桑原1の計16軒か。
 現在でも電気が引かれた家屋が残っており、訪問時も家に戻っている方がいた。分校跡はこの方に教えていただいた。

 


写真1 集落にて

写真2 分校跡


写真3 公民館跡


写真4 子守岩の祠

 

≪峠≫

標高:約600m

 

 西洞谷を離れ、大字円原(えんばら)の能(のう)谷に至る道の途中にある。長屋姓が3軒。碑では「お宮」も見られる。
 
現在は整備された林道の脇に何かの真新しい小屋があり、その裏手には屋敷跡と農地跡がある。

 


写真1 屋敷跡


写真2 屋敷跡の灯籠?

 

≪戸立≫

標高:約520m

 

 西洞谷の最上流。長屋姓が5軒。
 
屋敷跡や農地跡がそれとなく分かるが、何も残っていない。

 


写真 屋敷跡の石段

 

≪桑平≫

標高:450m

 

 墓地よりも上流にあたる。中心部との境界が分からないが村井3・長屋1の計4軒か。
 屋敷跡や農地跡がそれとなく分かるが、何も残っていない。

 


写真 屋敷跡にて

 

≪坂下≫

標高:350m

 

 中心部から緩やかな坂を下った辺り。桑原4・長屋15軒。家々はすべて対岸にある。碑では水車が見られる。
 
あまり詳しく見ていないが、何も残っていないよう。

 


写真 屋敷跡?

 

≪洞≫

標高:約350450m以下


 最近の地図で神社の記号がある場所の支流の谷沿い。長屋姓が3軒。
 
現在も電気の通っているかつての人家が1軒と(写真1)、さらに奥にも作業小屋が建っている。この敷地内には「長屋家代々誕生之地」という石碑(写真2)が建っているが、おそらく故郷を偲んで個人が建てたものだろう。

 


写真1 家屋

写真2 石碑


写真3 祠

 

≪シケ洞≫

標高:350m以下

 

 最近の地図で神社の記号がある場所より下流。桑原姓が4軒。碑では神社と水車が見られる。
 
神社は対岸にあるが、橋は朽ちて渡れない。訪れた形跡はあるものの、ほとんど荒れ放題になっている。

 


写真 神社跡

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ