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◆万波(まんなみ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「白木峰」(昭和28.12)を使用したものである

所在:飛騨市宮川町万波(みやがわちょう―)
地形図:白木峰/白木峰
アクセント:ンナミ
形態:川沿いに家屋が散在する
標高:約1,000m
訪問:20011年6月

 

 村の西部、万波川の上流部にある。万波川は村内で宮(みや)川に合流していないため当地は地理的には隔絶され、村内からは万波峠付近を越えることになる。ちなみに富山県に入り久婦須(くぶす)川と名を変え、八尾町【現・富山市】の中心部で井田(いだ)川と合流。
 村誌によると、地名の由来は小白木峰の「真南」にあること、あるいは連なる山々が波のようであるのでこのように呼ばれたのではないかという。
 峠を越え川まで下ると、川に沿って長く農地跡が広がっている。付近には耕作された畑があるが、地元の方の話では現在も1人が農作業に訪れているという。上流に進むと、大坂谷・ゴミ谷合流部付近に神社(万波神社)(写真2)が建っている。古い地図ではこの付近に学校の記号があるが、それらしい名残はまったく残っていない。集落全体で見られる建物は、農協による「万波野菜出荷場」や企業の宿舎?、作業用の建物などいくらか見られるが、ほとんどは近年になってのもののよう。
 なお地元でのアクセントは最初の1文字にある。
 村誌によると、坂下小学校の分教場があったという。明治41年5月開墾事務所内に設置(同43年4月認可、正式に開校)、昭和14年廃止。幕末の頃、薪・木呂を切って万波川で流して山稼ぎをしていた程度であったが、明治26年春より万波開墾が本格的に始められた。ただしこれより2、3年前既に開墾作付けをしていた者が20世帯ほどあった。最盛期には82世帯(明治33年)を数え、主に稗・そば・小豆・油荏・ダイカンバイモなどの畑作物を作っていた。大正時代より稲作も試みる。ほか養蚕も行う。焼畑による無肥料の農耕は次第に地力の消耗をきたし、日露戦争の終わり頃から離村者が出始めた。学校ができた頃は30余世帯。昭和14年11月、最後の5、6戸も離村。戦後、県の開拓関係者が着目して開拓指定地とすると十数名の入植者があったが、電力会社が水源涵養のために反対し、入植者を移住させた。
 「角川」によると、昭和10年には過疎により無住となったとある。また大字万波は、明治8年より成立(当時坂下(さかしも)村)。

 


写真1 広大な農地跡

写真2 神社

写真3 学校跡?

写真4 野菜出荷場

写真5 企業の「万波山舎」

 

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