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◆小瀬ヶ洞(おぜがほら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「高山」(昭和28.6)を使用したものである

所在:高山市朝日町小瀬ヶ洞(あさひちょうおぜがほら)
地形図:朝日貯水池/高山
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約830m(水面は約870m)
訪問:2015年11月

 

 大字小瀬ヶ洞の西部、秋神(あきがみ)川沿いにある。現在は秋神ダムの湛水に伴い水没。
 村史によると、延享3(1746)年21戸、明治4年29戸138人、同7年24戸139人、昭和12年27戸。国勢調査で昭和25年21戸117人、同35年4戸21人、同45年1戸3人。神社は加茂神社。稲作を行い、後年は農閑期に出稼ぎを行う人も多かったという。昭和20年頃より電源開発によりダム建設計画が発表され、同24年より工事開始。昭和25年より離村が始まった。移転先は高山市13・丹生川村【現・高山市】4・国府町【現・高山市】2・蛭川村【現・中津川市】2・清見村【現・高山市】1・村内1(2世帯については空欄)。
 ダムサイトには管理棟があり、敷地内には碑や集落ゆかりのものが置かれている(写真2・3)(※1)。国道を挟んで斜め向にある加茂神社(写真5)は、集落にあったものを現在地に移したものだろう。ほか県道との交叉点付近にある祠と石仏(写真6)も移設したものと思われるが、集落跡付近を望む地にある石塔(写真7)は「朝日秋神高根ダム交通事故横難者各諸精霊供□塔」(□は空白)とあり、後年になって建てられたものと思われる。

※1 このうち「鎌田の力持ち石」(写真3)は、小瀬ヶ洞の鎌田家にあった石。同家に暮らしていた力持ちの某が、顔を洗いに行った帰りに持ち運んできた。この石には某が一文銭を捻り込んだ跡や、足・尻の跡などがある。一度ダム湖に沈んだが、引き上げて保存している(説明文より要約)

 以下はダムサイトにある碑の文章。


 ふる里をしのぶ

 音もなく山合いにたなびく夕靄を透して、ポツリ、ポツリと家々の明りが、ほのかに灯り、夕餉の仕度を急ぐ人影がせわしく障子に写る。ついさっきまで、鎮守の森で遊びに興じていた童達も、バタバタと橋の板を鳴らして思い〓(※)に家の方へ散って行った。
路傍の尾花がかすかにゆれている。うす暗い納屋の片角では、またカラ〓(※2)と縄ない機の音があたりのしゞまを軽く乱している。
仕事を止める手を惜んで秋の暮れ、山里の一日は短かい。語れど声なき湖面、たゞ静寂のみ……
 祖先憤墓(原文ママ)の地、小瀬ヶ洞と
黍生谷飛騨川の悠久の流れに忘れ難い想い出を秘めて、集落の四十戸は、昭和二十八年ついに湖底に消えた。
そして人々は、絶ち得ぬ思いで父祖傳来この地を後にして新しい土地に移って行った。中部電力株式会社による電源開発工事によって生れた人工湖秋神ダムは、千六百五十三万立方米の水を湛え毎時二万五百キロワットの電力を生み出し、人々の生活を支えている。
いま、ここに無量の感慨を込め、静かな湖面に昔日の面影を偲ぶ。
 昭和六十一年三月吉日
  朝日村

※2 〓は繰り返しの記号。くの字点


 また「朝日ダム水没者名簿」とある碑では、小瀬ヶ洞区の31戸として岡田・中井・光坂・永畑・中林・今村・谷口・中井・岡田・奥原・新井・山本・山本・堀之上・飯村・栃井・上平・飯村・岩城・谷口・新井・鎌田・小林・新井・中林・新井・森下・原田・東・小坂・坂本の各氏が挙げられている。
 「角川」によると、大字小瀬ヶ洞は近世の益田郡阿多野(あだの)郷の小瀬ヶ洞村。明治8年朝日村の大字となる(当初は朝日村小瀬ヶ洞組と称した)。

 


写真1 堰堤と秋神貯水池

写真2 碑と灯籠。中央の碑には「ふる里の森 小瀬ヶ洞黍生谷ここにありき」とある

写真3 鎌田の力持石

写真4 地名表示

写真5 神社

写真6 祠と石仏

写真7 石塔

写真8 集落付近

 

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