◆峠山(とうげやま)
所在:天龍村神原(かみはら)
地形図:三河大谷/満島
異表記:地蔵峠(じぞうとうげ)(旧称)
アクセント:トーゲヤマ ジゾートーゲ
形態:高原に家屋が散在する
離村の背景:(3世帯現住)
標高:約1,100m
訪問:2007年11月
早木戸(はやきど)川と愛知県境の尾根に挟まれた山中で、向方(むかがた)集落の南にある。古い地図では1軒の建物が見られるが、民家かどうかは不明。地名表記はない。
集落のある辺りは山中に傾斜が緩やかな土地が広がっており、高原のようになっている。最近の地図ではこの辺りに「三ッ沢」の表記があるが、現地の案内板や地元の方の話から鑑みると「峠山」が妥当なよう。
在住の方の話では、昔は5世帯が住んでいたが、現在はこのお宅を含め3軒。昭和20年に開拓された集落。もとの地名は「地蔵峠」だったが、書くのに手間がかかったのだろうということで付近の山名から取り現在の呼称となった。
集落の入り口付近には、開拓記念碑と説明文の碑がある。以下は説明文の全文(「■」は判読できなかったもの)
昭和二十年十二月八日 標高千二百米の坂部共有地百十八町歩の土地解放を受けた満州引揚者及び郡内から参加する者二十五名、最初の入植をなす。然れども冷害鳥獣による被害 台風災害加うるに不備な道路日用必需品の入手難等その生活は辛酸を極め一旦入植せるも去る者既に百余を数へ現在停る者僅か五戸十二名のみ道路開通せる今日政府貸付金の償還も了え 今後は農協と結び畜産と山林経営により生活安定を計らんとするもの也 こゝに神原開拓組合解散を記念し■■■■■■■二百本を植え■■■■■を建立するものなり
以下は町史より、集落に関する記述の要約。
開拓地として指定されたのが昭和20年。同年12月、満洲からの引揚者と農家の次男三男で構成された25名の入植希望者が入山、掘立小屋などで居住したが厳しい寒さで全員退去。昭和21年4月以降、本格的に入山・開墾が始まる。昭和29年まで10回にわたり、のべ34世帯132人が入植。ピーク時には28世帯93人であった。電気も通るようになると生活も安定する。しかし昭和30年以降、高度経済成長に伴い離脱が始まる。昭和34年9月の伊勢湾台風により潰滅的な被害を受けたが、比較的被害の少なかった5戸12人が残った。昭和47年、開拓団は解散。平成11年、峠山には3戸8人が農業をして暮らしている。
入植の変遷は以下のとおり(昭和47年2月当時)
|
姓 |
入植 |
転出 |
出身地 |
1 |
池上 |
21.4 |
|
喬木村 |
2 |
小川 |
〃 |
|
三穂村(飯田市) |
3 |
奥村 |
〃 |
22.4 |
龍江村(飯田市) |
4 |
後藤 |
〃 |
40.12 |
喬木村 |
5 |
佐々木 |
〃 |
27.7 |
神原村(天龍村) |
6 |
高橋 |
〃 |
40.12 |
不詳 |
7 |
提 |
〃 |
|
神原村 |
8 |
堤本 |
〃 |
不詳 |
〃 |
9 |
遠藤 |
〃 |
22.3 |
平岡村(天龍村) |
10 |
仲平 |
〃 |
41.2 |
神原村 |
11 |
橋場 |
〃 |
|
生田村(松川町) |
12 |
松島 |
〃 |
22.4 |
松尾村(飯田市) |
13 |
〃 |
〃 |
44.3 |
〃 |
14 |
宮澤 |
〃 |
|
平岡村 |
15 |
矢澤 |
〃 |
41.3 |
上郷村(上郷町【現・飯田市】) |
16 |
村澤 |
21.11 |
37.12 |
平岡村 |
17 |
〃 |
〃 |
33.10 |
〃 |
18 |
板倉 |
22.4 |
45.3 |
〃 |
19 |
〃 |
〃 |
35.1 |
〃 |
20 |
中島 |
〃 |
35.11 |
川路村(飯田市) |
21 |
松島 |
〃 |
42.11(死亡) |
松尾村 |
22 |
三石 |
〃 |
23.6(死亡) |
下久堅村(飯田市) |
23 |
〃 |
〃 |
45.3 |
〃 |
24 |
〃 |
〃 |
31.4 |
〃 |
25 |
村松 |
〃 |
40.7 |
神原村 |
26 |
吉澤 |
〃 |
33.3 |
上久堅村(飯田市) |
27 |
三石 |
22.10 |
29.4 |
下久堅村 |
28 |
矢澤 |
23.3 |
41.2 |
松尾村 |
29 |
松枝 |
23.4 |
45.3 |
上久堅村 |
30 |
関 |
23.8 |
41.2 |
神原村 |
31 |
松枝 |
24.4 |
34.4 |
上久堅村 |
32 |
板倉 |
26.4 |
27.12 |
平岡村 |
33 |
川田 |
〃 |
45.3 |
上郷村 |
34 |
村松 |
29.4 |
33.3 |
神原村 |
|