◆北川(きたがわ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「大河原」(昭和27.9)および同地形図「市野P」(昭和34.12)を使用したものである
所在:大鹿村鹿塩(かしお)
地形図:鹿塩/大河原
形態:川沿いに家屋が並び、山の斜面に家屋が散在する
離村の背景:災害
標高:1,000〜1,100m(東斜面は1,200〜1,500m)
訪問:2013年11月
大字鹿塩の北部、鹿塩川沿いにある。
村誌によると、当地の開拓の始まりは明治7年。鹿塩村有林であった北川地籍を松本市の材木商が買い受け、10年契約で伐採作業者を入山させた。のち2社がそれぞれ10年ずつ、計30年間の伐木事業が行われた。伐採跡地の斜面を開墾し定住する伐採従事者が現れ始め、さらに明治12、3年頃からは木地師が入山し、定住。次第に戸数が増加した。明治18年頃には20戸程度(木地師13戸のほか、山師・農家)、同23年には25戸となった。しかし昭和36年6月の豪雨により、40戸全戸が移住。以下は同書より学校(鹿塩小学校北川分校)の沿革。
明治10頃 |
小椋氏宅の一室を借り受け、寺子屋式の授業を開始 |
明治31.4 |
北入尋常小学校の分教場となる |
大正5 |
鹿塩尋常小学校の分教場となる(北入尋常小学校が鹿塩尋常小学校の分校となったため) |
昭和36.6 |
大水害により校舎流出。児童は7月より本校へ収容 |
昭和37.4 |
廃校 |
現在沿道で見られる家屋は皆無で、枝道の先に1軒確認したのみ。屋敷跡もそれほど多くは見られない。最近の地図で右岸に記されている寺院の記号が見られるが、これは未調査。また時間の都合で東斜面に散在する建物も訪問せず。地区内には災害復興記念碑(写真2)が立ち、かつての大水害を偲ばせる。また神社そばの「頌徳碑」(写真6)は分校校庭にあったものが水害の際に流失し、のち発見され再建されたとの由。教諭(井上氏)の偉業を讃えたものと思われる。なお付近は中央構造線の露頭として名が知られているようで、北川露頭の案内がある。
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